友達を失うこと
その忠告と説教は何のため?
元々、転校が多かったこともあり、出会いと別れの繰り返しに抵抗感は少なかった。社会人になっても離婚2回、転職回数9回ともなれば、家族や同僚が
増えたり減ったりすることもごく自然に受け止めることができるようになった。(いいか悪いかは別問題である。)
結論からいうと、自分の気分を最大かつ唯一の基準にしており、基準を逸脱すれば距離を置く、場合によって関係を断つことを日常的に実施している。
この「気分」を基準にするという考え方に、以下のような反論をもらうことが多い。
・「気分」を基準って、自分勝手と変わらないのでは?
・自分の基準で友達を切ったりしてたら、友達いなくなるよ?
・そんなんだから、離婚も転職も多くなるんじゃない?
私の答えは一律で
「それで何がいけないんだっけ?」
自分の基準を信じれなくて、他人に基準を決めてもらう、特にプライベートではあり得ない。結果として、友達がいなくなっても、離婚につながっても、転職することになっても、自業自得である。はっきりいって放っておいてほしいのだ。というのも、他人の価値観や仕事、プライベートな状況に逐一忠告めいたことを言ってくる人間に限って、仕事も家庭でも不満をためこみ、たまに顔を合わすと自分の愚痴と他人への説教に終始しており、迷惑な存在に他ならないからである。
哲学的な忠告をもらう
少々変わった忠告で「どんな縁も無駄はない、自分の意思で縁を切ることは運を切ることだよ。」といったものがあった。縁や運は自身ではコントロールできないという考えの持ち主。そもそも私は、縁も運も後天的なものであり、自分で何とかしてきた部分が非常に多いと思っている。そもそも前提の考えが全く異なるので、話がかみ合うはずもない。当然ながら関係を断たせてもらった。
友達は量ではない
SNSの浸透で友達の数を増やすことに対し、ハードルが下がった。
おかげでこれまでの生活では決して会うことができなかったであろう人とのつながりを持てたのは本当にありがたい限りである。反面、当然ありがたく
ない面々に出くわすこともあり、事前予告も説明も挨拶もすることなく整理に走る。
元々、友達の数を求めてないし、ありがたくない面々にまで突っ込みどころ満載の私生活を公表する気がさらさらないからである。
友達は質でもない
私は友達の条件に、例えば「明朗で、優しくて、公明正大で、尊敬できるところがあって。。。」といった品行方正な人を求めているわけではない。
条件はただ一つ「接していて心地よいか」だけである。歯の浮くようなお世辞を言われても心地いいわけではないし(むしろ警戒する方だ。)、何か自分にない経験やノウハウ、専門知識がある、ビジネスメリットがある。。。それが心地いいかというとそれも違う気がする。
ただ一つの条件であるものの、具体的事例が挙げにくい条件でもあるように思う。
唯一の事例
「接して心地よい」人として唯一の事例があるとすれば、「どんな人に対しても、下から(下の立場として)接した方がいいですよ。」が口癖で、事実
言葉通り実践している人がいるが、その方とはどんな場でも一緒にいることに心地よさを感じている。
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