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海洋へ思いを馳せる

COVID19が世界中に蔓延して以降、色々な理由から家にこもっていることは以前書いたが、家にこもればこもるほど、気持ちは遠くへと羽ばたいていて、いつからか海洋学の教科書を読むようになった。自分がこうして家にいる間も、当たり前だが海では信じられない量の海水が循環していて、地球は変わらずに回転している。
そういう事実に、なんだか安心するというか、ほっと息を吐けるような気がして仕方ない。人間の営みとは関係なく存在する大いなるものに、何らかの神性を感じるというのは、もしかするとこういう感覚なのかもしれない、と思う。

猛烈に数学ができなかったというのもあって、高校では文系でも理系でもなく、強いて言えば「美術系」という形で授業を選択していて、大学も一応文系学部だったので、今に至るまで海洋学的な知識は要求されることがなく、従って、教科書(柳哲雄 著『海の科学ー海洋学入門ー』恒星社厚生閣)を手に入れるまでこの分野は全く何も知らなかった。きっと皆が知っているのであろう「コリオリ力」も、それを知っていればすぐ理解できたであろう「エクマン輸送」も、教科書に載っている図だけでは理解できなかった。言い訳をすれば、どちらかと言えばこれまでの私の興味分野は、海流や海そのものの物理現象というよりも、海流によって人間が島を渡り歩いた結果生まれた、海洋文化論の方であった。
しかし、冒頭書いたように、この時期、人間が紡いだ歴史や文化を、それそのものではなく、基底で動かしている大いなるものにどうしても惹かれてしまって、それを自分で理解するには、今まで避けてきた理系的アプローチが必須となったのであった。

海洋学の教科書は、読み物として読むだけでも、いろいろトリビア的な面白さがあった。例えば、太平洋中央部は同沿岸部に比べると海水面が高いとか(これには前述のコリオリ力が深く関わっている)、深さ1000mくらいまでの海水の流れ(表層大循環)と深さ5000m辺りの海水の流れ(深層大循環)は全然違うとか、その深層大循環で流れている海水がじわりと表層に押し上げられ、また再び元の位置に戻るまで地球一周におよそ3000年かかるとか、他にも本当に色々と興味深い話が載っていた。

ただ、こうした全く知らなかったお話を、いわゆる「おもしろ雑学」として処理してしまうのは、なんだか勿体なく感じた。かと言って、深海底を驚異的な遅さでじわじわと流れる深層大循環を見に行こうというのはまず無理な話であるし、表層大循環でさえ、目で見るのはなかなか難しい。それを目で見ようとするなれば、恐らくそれはその海流によって人間が展開した文化を比較することになろう。それはもう少し後に取っておいて、今はもう少し海そのものを知りたい、と思っている。

まだ全然勉強は途上だが、浅い知識のままに、へぇ、へぇ、と言いながら教科書を読んできて思ったのは、海洋では驚くほど多くのものが関連して、その挙動が規定されているのだ、ということだった。例えば、前述のエクマン輸送を一つ取っても、この現象は海水面を吹き抜ける風によって一定方向に向かって動かされた海水が、コリオリ力によって水平方向に曲がって移動するというものだが、沿岸部や赤道直下などの場所によっては、これによって垂直方向の海水の湧昇、あるいは沈降が観測されることがあるという。海水面を吹き抜けた風が、色々な要素が絡み合った結果、深海から海水を表層にまで引き上げることになるのである。
その一方、海洋循環の議論においては、数千km以下の現象であれば(地球を模した)球面座標ではなく直角座標で十分である(関根義彦 著『海洋物理学概論』成山堂書店)、と、地球というスケールの大きさから来るある種の大らかさがあったりする。

もちろん、数学や物理学といった先人の積み重ねを利用させて頂いてだが、この地球そのものを少しでも感じたい、と、日々家にいる身ではあるが、思っている。