見出し画像

見つめる時間

 今から11年くらい前、東日本大震災は起きていなくて、私は高校生で、11月の乾いた寒い空気と、武蔵野の木立をオレンジ色に彩る特徴的な日差しの中、日大芸術学部の文化祭にふらふらと向かった。

 芸術系大学の文化祭は色々と面白くて、あちこちの展示をのぞいたりして楽しんだのだが、その中でも、今でも事あるごとに思い出す展示がある。

 写真家・管洋志さんによる「メコン悠々流転」というマルチスライド上映。

 今朝、またそれをふと思い出したのでネットで検索してみたら、この展示は2010年11月1日から同3日にかけ、江古田キャンパスの東棟地下1階実習講義室にて行われたもので、650枚のスライドを12台の映写機で16分かけて投影するというものだったらしい。

 たしか予約制であった上映、部屋には階段状の観客席が組まれていた。
 スライド映写機が12台(おそらく4列×3台積み重ね)部屋の後方に据え置かれ、それぞれの映写機には下のリンク先の写真のように、35mmフィルムがドーナツ状にセットされていた。これが一定時間ごとに自動的にカシャカシャと入れ替わり、たくさんの写真が大きなスクリーンに投影される。映写機が12台あるので、最大12枚の写真が同時に投影される仕組みにはなっていたものの、実際はそれぞれの映写機が別々のタイミングで切り替えていたので、12枚の写真が画面に現れるということはなかったように思う。

 行ったことのないメコン川沿いの人々や川に住む動物、木、川を流れる何もかもが端正な写真に乗って、日芸の部屋に溢れかえった。

 未だにはっきり覚えているのは、空間にカシャカシャと無数に響く、フィルム切り替えの音である。スライド映写機がそれぞれフワーっと排熱扇を回しつつフィルムを切り替えて、まるでシャッター幕が落ちるように空間に揺らぎを生み出していた。

 スライド映写機の切り替わりの音は記者会見でのシャッター音みたいな忙しい音ではなく、優しい眼差しの瞬きであった。撮影していた管さんが現地でどういう眼差しだったのかは分からないけれど、その時私は、優しい眼差しの中で一瞬のシャッターが切られる、写真家の矜持のような何かを感じたのを覚えている。

 たしか、650枚の写真は全て、1枚の投影時間が6秒に設定されていた。

 肝心なことを忘れてしまったのだが、上映後に管さんが「6秒って丁度いいんですよね、長すぎるということも短すぎるということもなくて、メコン川を下っていくとき通り過ぎる川岸の景色を見るような感じで」というような話をしていた気がする(私の記憶の中で捏造しているかも知れない)。

 その後、私は映像系の学部に進学し、初めて自分たちで映画みたいなものを作ったりして、「映像の中の時間」というものを徐々に体験していった。そんな中で、ポレポレ東中野での編集技師の鍋島惇さんの特集上映を見に行ったとき、また秒数について面白い話を聞いた。

 確か、原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』の上映後トークだったと思うのだが、この映画を編集した鍋島さん曰く、ジャンプカットを不自然に見せない方法がある、というのだ。

 ジャンプカットはそれそのものが意味を持ってしまうため、基本的には御法度であるが、ドキュメンタリーの現場では同時に複数カメラを回すというのも難しく、どうしてもジャンプカットせざるを得ない状況が起きる。そういう際、ジャンプカットに見せないために、カットとカットの間に3フレーム黒みを入れると良い。この3フレームというのは意味があって、2フレームだと早すぎて上映事故に見え、4フレームだとちょっとダルいので、3フレームが適当、という話であった。

 さっそく帰って、編集中の自分のノートパソコンで試してみると、確かにカット間に入った3フレームの黒みは、ジャンプカットに比べて明らかに自然にカット同士を結び付けた。ただ、私としては3フレームはちょっとまだもたつくような気がして、2フレームだと丁度いい、と思った。

 しかし、そのあと、私は「やはり3フレームだった」と思い直すことになる。

 私が大学時代に所属していたサークルは、年に2回くらい、地域にあるミニシアターに協力してもらって、自分たちが作った作品を学外で上映する、という企画をやっていた。
 その年は京都みなみ会館で、鍋島さんのお話を聞いていた時に私が作っていた作品も、みなみ会館で上映させてもらえることになった。
 いつものノートパソコンの何十倍も大きいみなみ会館のスクリーン。ワクワクしながら自分が編集した映画を眺めていた私は、妙な感覚に陥った。

 映画のテンポが、明らかに速いのである。

 早回しになっている訳でもなく、書き出しを間違えた訳でもない。ただただ、パソコンで編集していたときのテンポとは明らかに違う、自分だけど自分ではない人が編集した映画を見ているような気分になった。

 そして、例の2フレームの黒味の部分。これも明らかに何か不自然な間がそこを通り過ぎたのだった。意図というには短く、瞬きにしては長い。気分の良くない瞬きがそこにあった。あー、やっぱ3フレだったか…と、結構ガッカリしたのはよく覚えている。

 混乱しつつスクリーンを見つめているうちに、これはスクリーンの大きさから来るものではないか、という仮説が立てられた。

 映画館の大きなスクリーンを眺める時の眼球の動きと、自分のパソコンの画面を見つめるときの眼球の動きの差は全然違う。そして、それに伴ってそこに流れる時間も当然違うのに、私はそれに全く気が付かずにいたのだった。

 特に結論はないのだが、
 壮大なメコン川を、圧倒的なリアリティで滔々と酸いも甘いも日芸の地下に溢れかえらせたあのマルチスライド上映を、もう一度観たいなあ、と、今も時々思う。