整理整頓の後
今日、部屋のベッドと机をぶっ壊して外に運んだのだけれど、そのせいで机の中にあったものや上に置いていたものが行き場をなくして、途方に暮れているのを見て、私はそれ以上に途方に暮れているのであった。
そこら中に転がる小中学校の想い出の品々が路傍の石の如く無造作に無作為に散り散りに転がっているのを見ていると、実は私がその路傍の石そのものではないのか、という錯覚とは言い難い事実を突きつけられたように感じ、無性にその品々に愛着が湧き出てきて、スーパーの袋に入った大量のガチャガチャの空のカプセル群にさえそれが及ぶ次第であった。
一つ拾い上げて見てみるとガンダムの類のものだとしり、私はガンダムを大して知らないので、昔の私は如何に雑食であったか知る羽目になった。
机の傍にあった週刊少年ジャンプの山を眺めて何年分あるのか推測したり、ニセコイだけを見ては扉絵がカラーならばカッターで切り目が絵に及ばないように異様に慎重になって切り取るという中学生がしそうな事に精を出したりした。
同じく散在していた数百冊の小説と新書たちを2年弱玄関に仏の様に安置されていた本棚を散らかり放題の部屋に持ち込み思い思いに詰め込んだ。
実に多いとおもっていたが、実はそうでもないように感じるほど本棚は容量が多くて驚いた。
そこにも私の変遷を見た。
私が本を読むようになったきっかけである東野圭吾には何の興味も示さなくなっていて、纏めて後列の一番上に置いた。
この頃よく読む本は自動的に前列の左右に動く形態の2つの棚に丁寧に詰めた。
部屋にあったはずのそれらは場所を変えられた事によって己に秘そんでいたエネルギーを発散し、忘れていた私に向けて凝縮したそれを撃ち込んできたのだろうか。
細かな事をふと思い出す。
机の下に置いてあったただの石ころは小学5年生の頃、少年野球の練習中にバックネット裏で見つけた何でもない石であった。見た目は何でもないのに、驚いた事にその石ころは私が引越しをした6年生の頃の荷物整理をかいくぐっているということであった。
普通ならばその石ころは前自宅の庭にでも放り投げて然るべき存在なのだろうが、私が拾い上げた事により何でもない存在になってしまった、つまり無常にもその石ころは私に出会ってしまったばかりにただの石ころとして生きる事が出来なくなってしまったのである。
その石ころは当然私よりも何百年の永きに渡り様々な場所を転々と移動させられては、そこで石ころとしての職務を全うしてきたのであろうが、私が与えた転機により石ころは私の部屋に飾られるというインテリアとしての職務を全うせざるを得なくなった。
再び、その石ころに私は何百年と続けてきた野ばらに転がるという職務に戻す事が出来るかと言ったら、それはもう出来ないだろう。
だから、今回の整理においてもその地位を保ったまま、然るべき場所に安置されるに至ったのである。
今日行った整理は良かったのか悪かったのかよく分からない。
実際、部屋はもちろん広くはなったかも知れないが、足場に困るほど散在した想い出達に眼を当てる事になったからである。
それらを選別し別の場所にしまうか、それとも永遠に別れを告げるのか、私にはまだ判断することが出来ない。
部屋が散らかってしまった困惑の気持ちと、過去の自分と再会した喜びが渾然一体となった不可思議な気持ちである。
が、その時の私は少なくとも過去との再会に歓喜し、想い出の荒地となった事を万歳して両手を広げ抱きしめたいと思ったのである。
2015/5/5
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