10年前の私はどこ
今、こうしているうちにも細胞は死んでは再生し死んでは再生している。
それは止まることはない。
止まる時は文字通り死んだときなのだが、ゆるりと訪れるものではないから死んだという意識は持つことが出来ない。
人生に幕を閉じるという重大な時に不意打ちで死ぬ。
よくドラマなどで人間が死ぬ瞬間に言葉を詰まらせながら最後の言葉を残してあの世に逝くシーンが描かれているが実のところ自分以外の人間はその死に悲しむ事も喪失感も味わうことになるのだろうが、当の本人はそんな事はお構いなしで無意識に唐突に死んでしまう。
なんと無責任な。
こうなってしまっては自身で悲しむことはできない。
だが、生きていいれば感情があり意識があり考えることもできるだろう。
細かな死を常々経験している中で何を思うのだろうか。
痛みも苦しみも味わわせることも私の許可も得ることなく細胞は死ぬ。
これは生物の罪でしょう。
一生かけても辿りつけないのですから。
細胞の生死は生きている限り続き、10年で今現在の細胞はすべて生まれ変わっているらしいのです。
10年前の私は一体何処へ。
これは悲しいという感覚なのか。
実感がないという喪失感なのか。
毎日、毎分、毎秒、10年前の私は死んでいるというのに、何も感じない。
この事実は悲しい部類でしょう。
10年前の記憶は受け継がれていく内に改善されては粉飾まがいな大げささを踏まえた作り物になっていないか。
十年前の私は中学生であった。
楽しいことも苦しいこともあっただろうか。
過去を偽ったか。
未来を信じたか。
現在を生きたか。
細胞の生死は時間の進行とともに止まることはなく進む一方であり、戻ることはない。
この進行の速さは疑いようのない悲しみである。
今という現在を生きる私の10年後は私であるが私ではない。
10年前の私は現在の私に何を思っただろうか。
10年前の私はどこ。
2015/4/2
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