猶予は無い
この世に猶予はない。
六歳で例外なく小学校に入学し、その後は肩書が付いて回る。
普通に生活すればするほどその状態は顕著に表れる。
この世を生きていくためには必要な事だと植えつけられている。
悪い事ではない。
至って普通であり、多くの場合が良い部類だろう。
高校に入って卒業に近づくにつれて無い頭に分からない知識を詰め込んで、人生で言えば一瞬のひと時のために頭を悩ませ、涙を流し、希望を胸に、自分で踏み出した一歩だと信じ込み大学への道を、ある一心を胸に歩み出す。
春の桜を望むと、自ずと胸が高まるようになってしまっている。
何の疑問も感じないだろう。
何もかもが新鮮に映っているだろう。
真実を掴みきった気でいるだろう。
三年が経つと一変し、春の希望も何もかもが現実にしか見えなくなる。
当然、一年の春に望んだ桜の影も無く、いやあるはずの桜に気付くことはできなくなる。
それはただ咲き誇る桜でしかない。
思い返すこともあるだろう。
しかし、それを過去のものであると認識し、現在の希望を未来であると勘違いする。
その勘違いが猶予なき現実なのである。
人はこれを成長と呼ぶ。
どういう訳か、この仕組まれたかのように用意された椅子に座っては違う椅子に座りなおす作業に終わりはないようだ。
去年の春。
私の友人の大半は次の椅子に座って、今も当然座り続けている。
六十歳を過ぎても座り続けなけなければならない。
木製の椅子、革張りの椅子、真っ黒な椅子、いろいろあるだろう。
猶予はないのだ。
私は卒業して何をしているのだろうか。
椅子はさがしているか。
いや、探していない。
何かやりたい事はあるのか。
いや、それはない。
しかし、成し遂げたい事はある。
周りには一切の椅子は存在していない。
私は珍しく立っている。
真っ白な世界に一人佇んでいる。
足を一歩踏み出すと足跡が付く。
この世界を穢れさせるように足跡を付ける。
自由に行き来できる現在に同じ場所に留まる猶予はない。
この世に生まれ落ちて初めて出来た猶予にも一切の猶予が無い。
2015/4/9
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