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自分を、社会を俯瞰して、ニュータイプになればいい

今回のnoteは、私が所属する長岡研究室で発刊しているマガジン『F&N』に含まれる記事になります。『F&N』とは Foot&Networkの略であり、この半年間で「越境活動(=フットワーク)」を通じた「出会い(=ネットワーク)」をトピックとして取り上げます。この記事の執筆を通して、ストーリーベースでこの半年間に起こった私のこれまでの点(経験)をつなげていきたいと思います。


1.はじめに

「都会の孤独は癒されることがないのか」
昨年の春休み、影山知明著者「ゆっくり、いそげ」の本を熟読していく中で出会った1文。とても心に突き刺されるような一言だった。昔に比べてテクノロジーは進化し、肉体的労働から解き放たれ、民主主義の中で自由を手に入れた世代であるのにもかかわらず、その自由の中にある孤独に死んでいく人々が存在する。インターネットによって物理的には世界中の人々が繋がることが可能になったが、それが時に自己顕示欲や横並び意識を助長させ、「繋がり」というより「競走」の意識の方が感じることが多い。
そんな競走と孤独の感情は、コロナウイルスの猛威によってさらに加速したように思う。自殺者は増え続け、芸能人の自殺報道も嫌という程耳に入ってきた。それに比例するかのように、都会から離れた地方の自然の中で過ごす「グランピング」*1や「キャンプ」が今年大流行した。これも孤独で忙しい都会の生活から、もっと人間らしく自然体で生きたいという人間的な欲求からきているものなのだろうか。私自身も、インターネットの便利さを利用しつつも、溢れる情報や通知に忙しく目を通して長時間スマホを見てしまったり、マウント合戦のようなSNSの息苦しさを感じて「デジタルデトックス」*2とやらを試してみたこともあった。
また、幸せの価値観も多様になってきている。私は今、就活をしているが、その中でも必ず出てくるワードが「自己実現」や「ワークライフバランス」などといった言葉である。単に金銭面的な年収だけでキャリア選択することはほとんどない。この言葉が流行っているように、私たちの幸せのモノサシは単に経済的な満足度だけでは測れなくなっている。だからこそ、自分の幸せのモノサシはどんなものであるのかをきちんと理解していないといけない。情報過多な社会に消費されず、孤独と忙しさに呑まれないようにするにはどうしたらよいのか。より自然体で、他者との繋がりを感じながら、自分の人生を歩いていきたい。そんなことをぼんやりと考えていた時に出会ったのがChange Maker’s College である。ここでは、今まで私の中に根付いていたマインドセットや人生の捉え方を大きく覆された。 「競走」ではなく「共創」から生まれる人と人との繋がりや、他者の違いを楽しむということを学んできた。
今回のF&Nでは、前述した問題意識を前提として、CMCで共に参加していたメンバーとの時間や言葉を取り上げながら、自分なりの学びや気づきを綴っていく。

*1 グランピンググランピング
「優雅な」「 魅力的な」といった意味の”glamorous”と”camping”を合わせた造語 。もともと海外で普及し、日本に伝わったグランピングは、アウトドアをリゾート感覚で快適に楽しむキャンプの新しいスタイルとして日本に定着しつつある。
*2 デジタルデトックス
一定期 間スマートフォンや パソ コンなどのデジタルデバイスとの距離を置くことでストレスを軽減し、現実世界でのコミュニケーションや、自然とのつながりにフォーカスする取り組み。

CMCとは?
NPO法人SETがデンマークの学校「フォルケフォイスコーレ」と連携しながら運営している学校である。対話を通じて、自己理解・他者理解を深め、他者との共創をデザインすることをコンセプトとしている。私はこのCMCに2020年6月から9月までの3ヶ月間、週3日、大学生・社会人含めた13人の参加者とともにこの学校に通っていた。

2.曖昧さに耐えられず、思考を放棄している自分

私は今まで、何かを成し遂げる時には明確な目標に向かって進み、決められた手順で物事をこなすようにして達成してきた。ルーティーンワークは得意だし、日々自分の中で正解を見つけながら進んできた。だからこそ、答えが曖昧だったり、ゴールが不透明なまま進むことは好まないし、苦手である。しかし、だからといってすぐに結論付けてしまうのではなく、一旦保留して、焦ってすぐに意味付けようとしないことも大事なのかもしれない。CMCの中で「ネガティブケイパビリティ」という言葉を知った。これは、どうにも答えの出ない、どうにも対処のしようのない事態に耐える能力(「ネガティブケイパビリティ」帚木蓬生著)という意味である。私はあいまいさが苦手であるが故に、自分がもともと知っている知識や情報を、新しく知った概念や課題と無理やり結び付けて理解しようとしてしまうことがある。これはCMCで対話している時に言われたことでもあった。どうも私と話しててもなんかオープンに話せてないなあと感じるのは、私が相手の話に対してなんでもかんでもうんうん、分かる!と言ってしまうからだ。相手からしたら本当にそう思ってる?と疑問だったらしい。越境先のセミナーや対話の最中でも相手が言っていることに対して、「なるほど!」と頷きつつも、実は心から納得しているほどの理解はほとんどできていないことが多いように思う。その時の私はおそらく思考が止まってしまっている。よくわからない出来事を誰かが説明して、分からせてくれて、それを「自分でもそう思った」と認識している。それは、分からないことや結論があいまいな状態からスッキリしたいと思うからだ。正解っぽいことを言う話し手の言葉をそのまま鵜呑みにして納得する。しかし、そこに疑問を抱いたり、自分事に落とし込んで考えてみたりする機会を失っていた。そして、相手との本当の意味でのコミュニケーションがこれではできないと感じた。「ネガティブケイパビリティ」を意識して発揮するか、分からないことに焦らず無理に理解しようとすることを目的にしないで、立ち止まって聴くことに集中できるか、ということが実はとても大切なことなのだと改めて思い知った。コロナ禍で日々、「結局どうすればいいの?」とつい誰かに答えを求めてしまうことが増えた。そして、その答えを明確にしてくれそうな人に私はつい依存してしまう。そうならないために、気持ちをスッキリさせてくれることを求めるときの私は「分からせてほしがっている」んだな、というふうに意識しようと思った。とはいっても、思考することはかなり体力がいる。ずっと考えて答えがでなくて疲弊してしまったら、一旦棚にしまって一休みしたらいい。ゆっくり自分なりの答え探しをしようくらいのマインドが思考を誰かに消費されない、かつ停止させないのかもしれない。

3,「違い」を活かし合う

CMCの入学式の時に、ファシリテーターである皆川ききさん*1がこんなことを言っていた。

「お互いの資源を使い合って欲しい」

最初はいまいちこの言葉の意味が分からなかったが、CMCの人たちと一緒に対話したり、何がひとつのものを完成させようとする過程の中で感じたのは、お互いが持っている価値観や得意なこと、つまり資源を補完し合っていこうという意味であると納得した。今まで生きていた中で自分が苦手だったり好きではないことも含め、ある程度人並み程度にはできるようにすることが求められてきた。学校の成績も受験勉強も満遍なくどの教科もできなければ評価されない。例えば、英語だけできても他ができていなければ当然落とされる。そして、私たちは自分に関わる全てのことを自分でできるようになることが求められているようにも思う。ききさんが言った言葉は、全て自分で人並みにできるようにするって本当に大切?という疑問を投げかけたようだった。当たり前だが、誰もがこれまで違う経験をしてきたのだから、一人一人異なる価値観や個性を持っている。得意なこと、好きなことはみんな違う。今の時代に必要なのはその違いを活かし合うことなのではないのかなと改めて感じた。自己責任ではなく、みんなで責任を持つ。1人でやるではなく、みんなでやる。抽象的な言葉を並べてしまったが、結局はお互いの資源を使いあうことが単純に楽しいという気持ちがある。その人を知りながら、自分が誰かに貢献することもできる。そして、この楽しさを味わうためには自分が何を持っていて、相手が何を持っていて、自分たちの周りには何があるのか、そういうことを知る必要がある。そして、そのために議論ではない対話が必要なのだなと感じた。

*1皆川ききさん
神奈川県横浜市在住。明治大学情報コミュニケーション学部 3年生。2019年に大学を休学しデンマークのノーフュンス・ホイスコーレに通う。「やりたいように生きる」社会を作ることがモットー。

4,「成長する」ってどういうことだろう

CMCをやりながら感じたのが「成長する」という言葉の違和感であった。今まで、成長することが一番の価値であるということを前提にしてきたことが多い。(ゴリゴリの成果主義人間です笑) 何を考える上でも、自分は今前に進んでいるか、過去に比べて成長しているのかを大切にしてきた。自分がこれまでいた社会では私の感覚的に、「成長」という言葉が資格や技能、知識を身に着けることと直結しているように思う。だからこそ、停滞してしまった時は「今のままでは全然足りない」と自分を自分で追い込んでしまうこともあった。その感情は気持ちを窮屈にさせたり、常にないものねだりの状態になってしまう原因でもあった。足りないものを求めてあがいているような感覚。もちろん、そうやって努力して、たくさんのスキルと人脈を持つ人は強くてすごいと思う。でも誰もがそんなに強いわけではない。CMCを通して感じたのは、「全部自分で頑張ろうとしなくてもいい」ということだ。これまで経験してきたこと、自分が常識だと思っていること、文化や習慣、あらゆることが自分の資源である。自分の外から要求されるのではなく、自分の中から生まれる好奇心や意欲、気づきで新しい自分の要素を、資源を増やしていく。そしてそれを使いあって何かを動かしていく。そんなことに社会に出る前に気づけて本当に良かった。

4.最後に

最近、クラブハウスというアプリが流行りだしている。このコロナ禍で失われた焚き火的な対話ができるのはとても魅力的だと思う一方で、ZoomやNetflixのような「目」を奪った次は耳の領域で可処分時間を搾取されてしまうのかという危機感も抱いた。上手く利用できればいいが、使い方次第では私たちの時間は搾取されまた孤独と忙しさに襲われる。クラブハウスを見ていると普段はなかなか聞けない〇〇さんの話が聞ける!とか言って忙しくあらゆるルームを回っていて質の高いインプットができた!という声を聞く。しかし、本当にそんな短時間で忙しい中で話を理解できているのだろうか?あいまいな状態を避け消費的な思考になっていないか?これからもっと新たなテクノロジーが出てきて、情報社会も加速する。だからこそ、人間本来のあり方を見つめ直し、デジタル社会から受ける影響を俯瞰し、認識し、考察しながら利用していきたい。社会に存在する負の側面を俯瞰しながら、それに対応できるニュータイプの自分へとシフトしていきたい。そして、それぞれの資源を活かしあえる仲間と共に、人間の倫理観に反することなく、もっと人間本来の目的に寄り添った価値を社会に提供できる1人になりたいと強く思う。

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