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講義録「近現代文化の諸問題」第2回 近代はいつから始まるのか~島崎藤村「前世紀を探求する心」

 第1回では、「歴史は繰り返されるのか」というテーマで、柄谷行人の「一九七〇年=昭和四十五年」を紹介しました。
 柄谷は「昭和」が終わろうとしていた今から30年ほど前の1988年(昭和63年)に、日本の近代史は60年周期で繰り返されている…という仮説を立てました。
 もちろん過去の出来事がまるで亡霊のようにそのまま繰り返されることなどありえません。しかしながら、マクロ的な視点で見れば、現代の長期低迷化する経済や震災をはじめとする自然災害からの復興、一触即発の外交問題などを目にすれば、大正から昭和初期にかけての社会情勢と驚くほど似ていると感じる人も少なくないのでは…と思います
 さらに現在、100年前のスペイン風邪に匹敵するパンデミックの脅威が迫る中、今後の社会がどうなっていくのか、見通しの立たない時代にあります。
 そうした中、過去の先人たちが、様々な危機をどう乗り越えてきたのか。未来が予測できない以上、過去の足跡を振り返ること自体は、無意味なことではありません。
 今回は近代の出発点から問い直していきたいと思います。

 今から3年ほど前の2018年(平成30年)は明治維新から150年にあたりました。
もちろん明治史に関心がなくとも、大河ドラマで『西郷どん』が放送されたので、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。
実はこの年、鹿児島の他、維新の立役者を生んだ山口や高知などでも、各地で様々な企画が催されていました。
 一般に世界史上の大きな変革期は「革命」と呼ばれることが多いのですが、日本の近代国家の出発点は、なぜ「革命」ではなく、「維新」だったのでしょうか。
 そして、なぜ二百六十年以上も続いた江戸幕府は倒壊に至ったのでしょうか。その舞台となった幕末から明治にかけての複雑な時代背景を、思想家や歴史人物の言葉から振り返りたいと思います。

 まず「明治維新」とは何であったか。既に多くの議論が出尽くしているかと思われますが、改めまして、先行文献から確認したいと思います。
最初に取り上げるのが、平成元年にNHK出版から刊行された司馬遼太郎の『「明治」という国家』です。本書で司馬さんは「明治維新は、士族による革命でした」と断言しております。
 とりわけ明治四年の廃藩置県については「勝利者も敗者も、ともに荒海にとびこむように失業する」という「革命」的側面に注目しています。
確かに一国一城の大名が、表立った反対論もなく、二百六十年以上にわたって治めていた自らの領地を、出来たばかりの中央政権に差し出すわけです。これは歴史上「革命」ともいえる大事件ともいえます。
 しかしながら、明治維新はなぜ英語でいえば、「Meiji Revolution」ではなく、「Meiji Restoration」と訳されるのでしょうか。「restoration」というのは「復古」と呼ばれ、世界史でいえば「王政復古」にあたります。

 明治維新を「Meiji Restoration」と初めて訳した人物は誰なのかは不明ですが、その意味では大変的確な英訳だと思われます。

 実は今から半世紀以上前の1968年(昭和43年)も、「明治100年」と呼ばれ、3年前と同じ様に、政府主催の式典をはじめ、様々な催しや出版企画が実施されました。
 その「明治100年」の10月28日、戦前から活躍した歴史学者の平泉澄博士は、水戸市での講演「明治の輝き」で次の様に述べております。

>その明治維新を革命と言う人がゐますが、革命といふのは、かういふものを言ふのではないのであります。(中略)革命といひますのは、非常に多くの人の血が流されるのであります。(中略)日本の明治維新におきましては、血は多少流れた。(中略)しかし、これは大きな変化に比べましては問題にならないほど少ないのであります。(中略)ことに最後の廃藩置県においては、誰一人文句を言ふ者がなかつた。<

 もちろん徳川慶喜の大政奉還以後、全く平穏無事に政権が幕府から新政府へと移譲されたわけではありません。
 鳥羽伏見の戦いから五稜郭の戦いに至るまで、国内を二分する大きな戦乱が起きます。薩摩軍による「武力討幕」の計画も進められたことも事実です。
 しかしながら実際は、西郷隆盛と勝海舟との談判でも知られるように、「江戸無血開城」という奇跡的な処置で、民衆を殆ど犠牲にすることなく、王政復古を実現させております。ヨーロッパや中国の革命であれば、将軍が処刑されてもおかしくないような出来事だったでしょう。
 維新当時、日本に滞在していた英国公使パークスでさえ、「ヨーロッパでこのような大革新を行なおうとすれば、数年間にわたる戦乱なしにはとても成就しないだろう」と感服しているほどです。

 明治維新は「革命」であったか否か。様々な識者の意見を振り返ってみましたが、西洋式の武力変革や大陸式の「易姓革命」ではなかったことは事実でしょう。しかしながら、明治維新では、政権交替に伴う血腥い戦乱を最小限に留めながら、「革命」以上の大変革を実現させたのです。
では、こうした変革は、黒船来航の衝撃によって突然生まれたものなのでしょうか。明治維新の理想がどこから出て来たものなのか。次に「維新の源流」を遡ってみたいと思います。

 昭和30年代から50年にかけて活躍した村上一郎という歌人・評論家がいました。今ではすっかり忘れ去られた感がありますが、『北一輝論』や幕末維新にまつわる論稿で、全共闘の学生や新左翼の知識人のみならず、三島由紀夫をはじめ民族派の活動家にも影響を与えた人物です。近年、『幕末』や『草莽論』といった著作も文庫化され、その業績も再評価されつつあります。
 村上は昭和43年の「明治100年」当時、春秋社から『明治維新の精神過程』を刊行しております。
「私にとって、明治維新の精神運動の総過程は、一八〇〇年代のはじめ、いわゆる文化・文政の交にはじまり、ほぼ明治二十年代のはじめをもって挫折する約八十年間における国民精神の激動いっさいを包摂するものでなければならない」と述べております。

「文化・文政」というのは「化政文化」の由来となった19世紀初頭の元号の時代です。一般に、江戸初期に上方(関西)を中心に盛んとなった「元禄文化」に対し、「化政文化」は江戸の庶民を中心に普及した江戸後期を代表する文化の時代ともいわれております。
 なぜその始点を「文化・文政の交」にとったのか。それは、「日本の町村のいとなみの中核に、文字を書き、読み、知識をひろめ、また単純でデスパレートな土俗的娯楽を芸術としてゆくような意識が実現したのを、この時点とするから」であり、「そこに、五街道中心の街道的世界としてのみ在った日本はしだいに世界史的世界として自己を実現する起点をもった」ところに、それ以前の歴史とは大きく異なる所以があるからといいます。
 「明治維新の精神過程」を黒船来航以降ではなく、それよりも遙か半世紀前の文化文政期に遡った本書は、今なお新鮮な印象を受けます。庶民の教養や出版文化に着目している点も、元々東京商科大学(現・一橋大学)で社会思想史を専攻していた村上ならではの視点でしょう。

 実は明治維新の源流を、西暦でいえば十九世紀初頭に遡ったという視点は、それよりもさらに50年ほど前に、詩人で作家の島崎藤村も提起しております。
 藤村が「わが国における十九世紀」というテーマに関心を持ち始めたのは、大正2年から5年にかけてのフランス滞在中でした。
 その時、「故国宛の旅のたより」の中で、藤村は次のように書き綴っています。

>もしわが国における十九世紀研究というべきものを書いてくれる人があったら、いかに自分はそれを読むのを楽むだろう。明治年代とか、徳川時代とかの区劃(くかく)はよくされるが、過ぎ去った一世紀を纏めて考えて見ると、そこに別様の趣きが生じて来る。
まずは本居宣長の死あたりからその時代の研究を読みたい。万葉の研究、古代詩歌の精神の復活、国語に対する愛情と尊重の念、それらのものがいかばかり当時に目ざめて来た国民的意識の基礎になったかを読みたい。<

 まず、藤村は「徳川時代/明治時代」といった時代区分でなく、「十九世紀」という枠組みで、「国民的意識の基礎」を見出していることがわかります。
 しかも日本人の国民的意識が、本居宣長の国学から出発しているということです。
藤村は帰国後の「本居宣長」という別の小文の中で、「明治維新に対する本居宣長の位置は、あたかも仏蘭西(フランス)革命に対するルオソオの位置に似ている」とまで述べています。
 「厭世詩家と女性」という文章で、〝恋愛至上主義〟を唱えたとされる北村透谷に先駆けて、「儒教風な男女関係の教(おしえ)に対して大胆に恋愛を肯定して見せた」宣長の「物のあはれ説」は、ルソーの『ヌウヴェル・エロイズ』に匹敵するものだというのです。

 藤村は、ルソーの『懺悔録』に導かれる形で、『破戒』に始まる「告白」による自然主義文学を確立した人でもあります。いかにその影響が強いものであったかが窺えるものです。
 かつそのルソーとほぼ同時代に国学者が、「自然に帰れ」という考えを唱えたことを知り、藤村は宣長を「近代人の父」とまで評価しています。
 この辺り、当時の知識人の「近代主義」に対する過度な理想視も感じられますが、こうした視点が、後に代表作となった『夜明け前』で、平田派の国学者であった父の肖像を描く大きなきっかけとなったことは間違いなさそうです。

 文学やその他の藝術では、19世紀を境に、喜多川歌麿や上田秋成らも歿し、式亭三馬や十返舎一九らが現れ。「写実主義的傾向に変って行った」ことにも着目しています。
 また、前野良沢、杉田玄白といった蘭学者の活躍から、日本が「組織的な西洋の文物を受け納れようとした」のは明治以降の4,50年程度ではなく、「すくなくとも百年以前の前半期を殆どその準備の時代であった」ことを提起するのです。
 源平合戦から德川氏による天下平定までの軌跡を描いた『日本外史』を著した頼山陽が登場するのもその頃です。
 しかし、山陽には「まだ十八世紀風の残ったところがある」のに対して、渡辺崋山、高野長英、吉田松陰といった人物になると、「反抗、憤怒、悲壮な犠牲的精神」という点において、「…どうしても十九世紀でなければ見られないような激しい動揺と、神経質と、新時代の色彩を帯びたもの」を汲み取っています。
 この辺りになると、藤村の先輩格にあたる文学者の北村透谷や二葉亭四迷といった人物たちともつながるような「武士的新人の型」が既に登場し始めていることがわかります。
 パリ滞在中に、〝日本における近代の幕開け〟を再発見した藤村は、帰国後の1911年(大正13年)、随想集『春を待ちつつ』を刊行。そこに収めた「前世紀を探求する心」の中で、藤村は次の様に述べるのです。

>私は前世紀のはじめに起って来た保守的な精神を単に頑固なものとばかり見ずに、もっと別な方面から研究さらたものを読みたい。それがさかんな愛国運動となって行った跡を読みたい。(中略)
何と言っても前世紀での大きな出来事の一つは明治の維新であろうが、旧制度の打破、民族の独立、外国勢力への対抗ということにかけて、前世紀のはじめから流れて来たこの二つの精神が相交叉し、相刺戟した跡を読みたい。大正の今日、私たちの眼前に展開しつつあるような世界主義と、その反動の大勢とは、早くも前世紀に産声を揚げた双生児であることを読みたい。<
    (十川信介編『藤村文明論集』岩波文庫、1988年より)

 ここで藤村は大正期当時の「世界主義」という視点から十九世紀の日本を振り返ろうとしております。つまりそこから幕末維新期の精神史の一貫性を読み取ろうとしているわけです。この発想は後の長篇小説『夜明け前』や晩年の大作『東方の門』へとつながっていきます。
 幕末の平田派の国学者を小説化した島崎藤村の『夜明け前』は、次のような興味深い場面があります。
平田篤胤といえば、どのような印象をおもちでしょうか。
一般に「国学者」というと外国の文化を排斥し、日本中心に凝り固まるような偏狭な人物を想像する人も多いのではないのでしょうか。
 ところが藤村の父・島崎正樹がモデルである主人公・青山半蔵は、ある晩、自分の師匠にあたる篤胤の『静の岩屋』を繙き、次のような一節を発見するのです。

「そもそもかく外国々(とつくにぐに)より万づの事物の我が大御国に参り来ることは、皇神(すめらみかみ)たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故に、善き悪しきの選みなく、森羅万象ことごとく皇国(すめらみくに)に御引寄せあそばさるる趣きを能く考へ弁へて、外国より来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すも畏きことなれども、是すなはち大神等(おほみかみたち)の御心掟(みこころおきて)と思ひ奉られるでござる。」

 これを眼にした半蔵は深いため息をつき「自分の浅学と固陋とばか正直」とを嘆息します。
「先師と言へば、外国よりはひつて来るものを異端邪説として蛇蝎のやうに憎みきらつた人のやうに普通に思はれてゐるが、『静の岩屋』なぞをあけて見ると、近くは朝鮮、支那、インド、遠くはオランダまで、外国の事物が日本に集まつて来るのは、すなはち神の心であるといふやうな、こんな広い見方がしてある。
先師は異国の借り物をかなぐり捨てて本然の日本に帰れと教へる人ではあつても、むやみにそれを排斥せよとは教へてない」と感涙し、篤胤の柔軟な学問姿勢を発見するのです。

 もちろんこれは半蔵本人というよりは、『夜明け前』執筆時に篤胤の思想に触れた藤村自身の感慨ともいえるかもしれません。
 意外に思われるかもしれませんが、実際に平田篤胤は、百科全書型の博覧強記の人物で、日本の古典や神道ばかりではなく、西洋の聖書も独自に入手し、今でいう考古学や医学、科学に至るまで、貪欲なまでに吸収していった人です。
 その意味では一般に〝排他主義〟と目されがちな「復古神道」ですが、むしろこうした日本人の多神教的な宗教観が、「近代」を準備したとも考えられます。
 ところが、いざ明治維新が始まるや否や、半蔵はあまりにも自分の追い求めた理想像と異なるのに絶望し、最終的には「狂死」してしまいます。
 半蔵が求めた「維新」とは何だったのか。それは日本神話の「神々の時代」に帰ることでした。
 もっというと、大化改新以前の「君民一体」(天皇と国民の一体化)の時代に戻ることで、国学の理想像が実現し、なおかつ民衆の生活が困窮から解放され、よりよい時代になることでした。
 周知の通り、明治維新後の日本は「天皇親政」の理想が鎌倉時代以来700年ぶりに復活し、仏教伝来以前の神道の「国教」化が進められ、太政官制などの古式ゆかしい律令制度も再開しました。(これは先ほど紹介した歴史学者の平泉澄に近い意見かもしれません)
 しかし、それは出発当初だけで、明治新政府は「廃仏毀釈」も挫折し、太政官制度も内閣制度に徐々に改められ、さらには「王政復古」とは対極ともいうべき「文明開化」路線が主流となっていきます。
 一般には、徳川幕府崩壊以降の「明治維新」と「文明開化」とは、ほぼ同一のできごとと見られているのではないでしょうか。
 しかし、実際は当初は「復古即革新」を意味する「維新」の意味は、欧米列強によるアジアへの植民地支配を阻止すべき、次第に「富国強兵」「近代化=西洋化」へと進んでいきます。
 嘗ての自分の理想が悉く裏切られていった半蔵は、遂に領内の寺院に放火し、天皇への直訴まで目論んで、牢獄に入れられてしまうのです。

 明治5年(1872)生まれの藤村は、そんな父の姿を間近に目にしながら、新しい時代の担い手として、明治期の教会で讃美歌や聖書教育に触れ、やがて英文学を志すようになります。
 近代詩歌の創始から自然主義文学の確立、フランスへの遊学と進んでいった島崎藤村の生涯は、まさに文明開化の縮図ともいえるものでした。
 ところがこのフランスへの渡航体験が藤村の人生観を大きく変えます。
 パリで西欧最先端の文化藝術に触れた藤村は、帰国途中、父が苦しんだ「黒船」の幻影に悩まされるのです。
 皮肉にも、帰国後に藤村が取り組んだのは、そうした父の肖像を描くことでした。

 『夜明け前』執筆後も藤村は、「十九世紀日本」への考察に拘り、「本居宣長から岡倉天心」に至る100年に及ぶ、壮大な文明論を構想します。
 それが遺作となった最晩年の大作「東方の門」です。
 既に日本とアメリカとの戦争が始まり、藤村は大東亜文学会にも参加して「戦争協力」も推進していましたが、その数年前には、南米大陸に2回も足を延ばすなど、精力的な活動を進めています。
 藤村は戦争中の昭和18年、『東方の門』執筆中に71歳で亡くなります。
晩年は国学者であった父を回顧することで、古い日本の伝統にも立ち帰ったかに見えた藤村ですが、最後まで世界的視野を失うことなく、文学者としての多大な業績を遺してきたのでした。

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