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いのちへの水

冬眠から目覚めたものの、目覚めてすぐスマホを手に取り、画面を眺め続ける悪い癖がまた戻ってきてしまっている。

そうやって画面をぼーっと見続ける中で、本当に面白いものや心動かされるものに出会うことはほとんどなく、その物足りなさを埋めようとさらに画面を見続ける悪循環。

これではいかんと電源を切り、聖書を読むことに。

何時間画面を見続け、スクロールし続けても満たされなかった心が生き返る。深い喜びが心から溢れてくる。

『しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。ヨハネの福音書4:14』

喉がカラカラな時に水を飲んでその渇きが癒されるように、イエス様を受け入れるなら、心の渇きが癒されるというのが聖書の約束。渇きを満たすための何かを探し回る必要はもうなくて、イエス様に満たされるようになる。

思えば、私がイエス様を他の誰でもなく「わたし」の救い主だと受け入れた決定打はこの満足感にあった。人から良い評価を得ようと頑張っても、お酒を飲んでも、何かを買っても、見た目を良くしても、何をしても満たされなかった心。その虚しさを満たすために罪を犯し続ける私のためにイエス様が十字架で死んでくださったことを受け入れたとき、あんなにも虚しかった心が不思議と満たされた。

その決定的な出来事の2年後、わたしは深刻な問いと恐れを持っていた。

「もしも真剣に自分の人生を神様に捧げたら、この穏やかな満足感に満たされた心はなくなってしまうのではないか」

誰かに邪魔される心配のない私一人だけの部屋で、自分の大好きな宝物を取り出して見つめて喜んでいたかった。自分が得た深い満足感を絶対に失いたくなかった。ひとり部屋を出て、何かを人に分かち合うことは、その宝物が傷つく危険性があるように思えて、辛かった。

結局わたしはその問いに答えが出せず、怖気づいて、逃げ出してしまった。

それから4年が経った。

コロナウイルスが流行したことにより、自分ひとりだけで時間を過ごさなければならないことが圧倒的に増えた。相変わらず人付き合いが苦手なわたしは、正直ほっとしている。4年前に願っていたとおり、誰にも邪魔されないひとりで安全に満足感を味わい喜こべる世界を手に入れた。

そのはずなのに心に喜びがない。誰にも傷つけられないはずなのに、心がカラカラに渇いていく。

小さな水源に枯れ葉が積み重なって、源がそこに存在することを忘れてしまうように、自分の心が生み出すプライドや悲しみや許せない心や自分勝手さを心に積み重ねてしまう。そして、水源を覆い隠してしまう。

聖書を読んだり、祈ったりすることを通して、イエス様がその枯れ葉を取り除いてくださる。そして、心の中にはちゃんと水源があることを思い出す。そこにはいのちがあって、私がどのような状態かに関わらず、新しい水がみずから湧き出ていることをたしかめて安心する。心が命の水で満たされていく。渇きが癒されていく。

その繰り返しなのかなと今は思う。

私がイエス様からいただいた満足感や安心は、擦り減ったり壊れたりしてしまうものではない。いつも新しい水がわきたってくる、泉をイエス様はくださったことを思う。



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