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転ぶ人

1日で2回転ぶ人を見た日というのは記憶にない。その日は、2時間の間に二人転んだ人を見た。雪でもなく、雨でもない。

一人目は、駅のホーム。僕は電車に乗っており、目的地に着いたのでホームに降りた。入れ違いに乗ってくる人がいて、その女性は電車に駆け込もうとしていた。そして、ドアの前で割と派手に転んだのである。

バレーボールの回転レシーブのようにくるりと回ったものの、最後は一本背負いで投げられたようになっていた。そして、ドアは無情にも閉まり、女性は何事もなかったかのように、ホームを歩いて行った。

年齢は40代の後半だろうか。

もう一人は、夕方に徒歩で自宅に帰っている途中、車道を挟んだ反対側の道に女性が倒れていた。転んだ瞬間は見ていないのだけど、自転車に乗っていて転んだようだ。年は60代の後半だろうか。

相当に足が痛かったようで、自転車を押して歩いて行った。

二人ともに「大丈夫ですか?」という声をかけることもなく、傍観者になっていたのには理由がある。


転ぶということ

転んだ人を見た時に、安易に声をかけないのは、相手が恥ずかしいと思っている場合に、羞恥心を上塗りしてしまう可能性があるからである。

というのは、転んだ時に、僕は声をかけて欲しい人間ではないからである。だから、実は、僕は転ばないように人一倍気をつけている。

雨の日は、滑らないスニーカーを履いているし、階段を走って降りたりはしない。特に、前に下り階段で滑って転んで、お尻を強打した人を見たからである。あれは確実に痛い。自分のことではないけど、尾骶骨から脳天までの衝撃を受けているに違いない。しかし、その男性は、横にいた友達に「いって〜」と言いながら、何事もなかったように階段を降りていった。

以来、軽いトラウマになっている僕は、転ぶことを極端に恐れる。だから、雪の日は、かなりスローペースで歩いている。


恥ずかしさは痛みを超越する

転んだ人は、たいてい何もなかったかもように立ち去っていく。

もし、誰も見ていないところで転んだら、きっと痛がると思う。少なくとも、僕は飛び跳ねるほど痛がると思う。しかし、人前で転んだ場合、僕も一刻も早くその場を離れようとするだろう。

つまり、恥ずかしさは超絶的な痛みすらも超越するのである。


なぜ、恥ずかしいと思うのか?

なにゆえ、僕らはこんなにも恥ずかしいことに敏感なのか。恥ずかしいと感じるのは、おそらく人間だけである。愛犬は、道端でウンコをするし、たいていの動物は外で後尾もする。

転んだ時に恥ずかしいと思うのは、他人に笑われるからで、要は他人に見下されている気になるからである。人は、馬鹿にされることを嫌う(転んだくらいでバカにされてないないかもしれないけど)

もう一点、恥ずかしいことをしてしまった際は、自分への期待を下回る。つまり、「俺は本来は転ぶような人間ではないのだ」と言いたいけど、転んだ様を見られてしまえば、言い訳にしか聞こえない。


転ばないけど、躓く

僕は、最近段差がないところで躓くことがある。想定するに、自分が思っているよりも足が上がっていないのだと思う。つまりは、体が衰えているのである(53歳だし)

哀しいことに、年齢を重ねると恥ずかしい事態に遭遇する可能性が高まっていると思う。肉体的な衰えによる運動機能の低下に加えて、「年相応」という逆の縛りも強くなる。逆の縛りとは、「いい年して」というもので、「大人」がやってしまうと恥ずかしいと思われることが増えるのである。たとえば、酒に酔って管を巻いている若者がいても、みっともないけど、恥ずかしいとは思われない(僕の感想かもしれないけど)。しかし、これが50代のおじさんだと恥ずかしい。

運動機能は衰えてり、一方で、精神的にはそれほど成熟していない人間は、恥ずかしいことをしがちなのである。


気をつける

何の話をしているのかというと、僕は恥の多い人生を歩んできているが故に、できるだけ恥ずかしいことをしないようにしたいという願望が強い。しかし、年を取るに従って、恥ずかしいことをしてしまうケースが増える。

では、どうすればいいのかというと、気をつけるということに尽きる。と言っても、転ばないように下を見て歩くという話ではなく、恥ずかしいことにならないように気をつけておくということ。言い方を変えれば、自分を過大評価せずに、年相応に生きるということ。対人関係においては、年上だからと威張らずに、謙虚にいるということになろうか。

それでも、恥ずかしいことをしてしまった時は、「いった〜、エヘヘ、転んでしまった。」とか言って、笑ってごまかす術も身につけておこう。
と思った、なんのことはない1日の話。




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