児玉聡氏の「京都市の「事前指示書」は何が問題なのか」に反論する

 京都市が今年4月から配布を始めた「事前指示書」をめぐって、倫理学者の児玉聡氏が、「京都市の「事前指示書」は何が問題なのか」と題する文章を書いている。私自身、障害を持つ当事者の立場から倫理学を研究する者として、看過できないと思い、この文章を書いている。

 児玉氏の論考は、以下の二部に分かれている。

 ① 事前指示書に寄せられた批判が、事実とは異なっており、間違った批判である。
 ② 事前指示書は「弱者の切り捨て」であるとは言えない。

 ここでは、①を認めたとしても、②を結論づけるには無理があることを主張する。

 児玉氏は、「事前指示書は行政によって「押し付け」られたものではない。区役所などで配布されていることをもって、行政が尊厳死や安楽死を推進していると主張するのは飛躍である」と述べる。その通りである。だが、こうした「飛躍」を感じずにはいられないほどには、障害者や難病患者の生は蹂躙されているのである。児玉氏が「飛躍である」と断じるその内容など、批判者たちは骨身にしみてわかっているのである。そのときに、したり顔で「飛躍である」などと断じることが、果たして「弱者」の生に寄り添った考え方であると言えるだろうか。「行政が治療の中止を勧めているというのは悪意のある見方であり、自分で死や死後のことについて決めたい人の意思決定を支援しているというのが中立的な記述であろう」というのも、どれほど能天気な考えであるのか。介護が必要な重度障害者や難病患者は、死にたくなったとしても自分で死ぬことすらできない。「だから死ぬ道を開く」というのは、障害者や難病患者が死にたいと思うような社会的背景や、「いま、死にたいと思いながらも懸命に生きる」その姿を蔑ろにするものだと私は考える。「支援を必要としない市民はその書類を手にしない自由がある」などと呑気なことを言っている場合ではないのだ。

 児玉氏は、自論を述べると、「そのような見方はナイーブだ。そのような事前指示書を行政が用意することで、家族や社会に依存して生きている弱者は心理的圧力を受け、本当は書きたくないのに事前指示書に治療中止を希望する旨を書かされることになるのだ」という反論が来るだろう、と想定する。私も、この反論に賛成である。そして、この想定反論に、児玉氏は、「このような事態は、たしかに望ましくない」としたうえで、「このような事態を生み出さないために、事前指示書を作ることを禁止し、終末期における過剰な医療を望まない人の意思の表明を禁止すべきだろうか?」と問いつつ、「これも、悪い結果をもたらすだろう」と述べる。

 たしかに、終末期医療の事前指示書などの配布中止や回収を求めるということを、字義通りとれば、事前指示書の作成や、終末期における「過剰な医療」を望まない人の意思の表明を禁止していると考えるのは、理解できなくはない。しかし、このように主張する人たちや障害者団体は、生命の終わりをみずからの意思によって決めてよいとする風潮それじたいを疑問に付していると考えなければならないのではないか。障害や難病を抱え、医療費や介護者の負担を気にしつつ、そのことによって障害者や難病患者に「生きているのは申し訳ない」と思わせているのは、いったい誰であり、何であるのか。そうした部分をとらえた抗議活動を、単に「治療継続/治療拒否」のような二項対立の一見わかりやすい構図に乗せようとするのは、まったくの詭弁であり、物事の本質を見ようとはしていないように私には思われる。

 さらに、「弱者への配慮と弱者への遠慮は異なる」とする言い方も、言いたいことはわからなくはないが、「差別と区別とは異なる。差別はいけないが区別はかまわない」のような幼いロジックのように私には見える。「終末期における人々の希望の表明を認めないとか、それを尊重しないといった事態になってはいけない」というのはその通りなのであるが、だからといって事前指示書への抗議の声を上記のように曲解し、あたかも終末期の人々の対立に落とし込むような言説を紡ぐことは、学者としていかがなものかという思いが私にはする。

 児玉氏のような立場で考える倫理学とは、「終末期に陥った時に、どういう場合に延命治療を施すのが倫理的か?」という問いに収斂していく。私は、こうした問いが偽の倫理学であると再三述べてきた。そのような終末期と呼ばれるような厳しい現実はあるが、それは単に現実に対しての処遇の問題であり、医療というものが人を生かすためにあるのであれば、その問いは「医療によって人を殺してもよい」ことを含むため、問いじたいが成立しないのである。現実に対する淡々とした処遇と、その処遇に対する価値判断をしてもよいのかどうかということとは、まったく異なるのである。

 私は、倫理学とは「延命治療」という名で呼ばれている治療の可能性を広げていくものであると確信している。生きていなければ価値判断もできないので、生存は倫理学に先立つと言ってもよいかと思う。そうであるとすれば、倫理学が現実に向かって要請する規範の一つとは、「終末期の患者が生きられるように、医療費や介護体制を充実せよ」ということなのではなかろうか。そのうえで、個人の意思を聞き取ればよいのだ。そのことは、「死ぬことを表明する意思」――私にはそれはつらく悲しい意思にも思えるが――を否定もしないはずである。

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