インクルーシブ教育は障害児のためにあるのか?

 インクルーシブ教育は、障害者にとっての教育の権利とされる。日本も批准している「国連障害者権利条約」においても、第24条でそのことを謳っている。

 ではなぜ、インクルーシブな環境における教育の保障が、障害者にとっての権利なのであろうか。言いかえれば、インクルーシブ教育が、なぜ障害者の権利であると言われるのか、そのことについて考えてみたい。

 学校教育において、教科教育は重要である。そのことは言うまでもない。「学校教育において教科教育をどの程度教えるか、どのような内容を教えるか」については議論があるが、教科教育の重要性は論を待たない。

 しかし、学校教育において教科教育だけが重要なことではない場面もある。それは、「人間が多様であるという事実を、経験として学ぶ」ということである。そこには外国籍の子どももいる、被差別部落の子どももいる、障害のある子どももいる、ひとり親家庭の子どももいる、貧困家庭の子どももいる。つまり、学校とは、「自分とは違う境遇の子ども(や教職員等)がいる」という事実を、経験として教える、あるいは学ぶ場所なのである。それは、教科教育では絶対に教えたり学んだりすることはできない。

 障害のある子どもも、その中で学ぶ権利を有する、これは当然のことだろう。一方で、健常だと言われる子どもにとってはどうだろう。健常児にとっても、障害のある子どもが同じ学級で学ぶことは、学びになりうる。「世の中には障害のある人がいる」ということを実体験として感じることは、机上だけの人権教育よりもよっぽど効果がある。実際に接したり、話したり、遊んだり、ときにはケンカをしたりすることは、「障害者を理解するための教育」を大人が行うより、よほど意味のあることである。「障害者も人間である」と大人が説教するよりも、「自分とは違う人間が社会にはいるんだ、そして障害があろうが人間なんだ」ということを、腑に落ちた形で体得していくはずだ。この意味では、障害児が隔離されて教育を受けることは、健常な子どもにとっても「障害児と出会う機会」を奪われているとは言えまいか。

 このように書くと、「障害児は健常児の学びのための道具ではない」という批判もあるだろう。しかし、それはどうだろうか。それが字義どおりに「健常児の学びの道具」だけなのならば、そのような批判は当たっているかもしれない。けれども、人間は成長していく。子どもたちはやがて成長して大人になる。学校を卒業すれば地域社会に出る。そのときに、障害のある子どもが分離されていれば、大人になっても地域の健常者はその人のことを誰も知らない。そのような社会において障害のある人たちは地域に溶け込んで暮らしていけるだろうか。現実問題として、そうなってはいない。依然として多くの障害者は、親元や入所施設での生活を余儀なくされる。ここまでの議論を踏まえれば、その大きな要因の一つが、学校教育がインクルーシブではないことであると考えられるのではないか。

 インクルーシブ教育の議論において、障害のある子どもとその家庭の希望する学校の実質的な選択、という議論は重要であるだろう。そのことは認める。しかしながら、「そもそもなぜインクルーシブなのか」という議論も必要ではないか。子どもはいずれ大人になり、さまざまに生活をする。そのときに、障害者も地域社会の一員として社会を形成する存在なのか、「障害」というものが多様性をなす一つの軸として考えられているのか、そこまでをインクルーシブ教育の議論の射程とすべきではないのか。

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