誰もどの学校がよいのかは言えない、にしても、何が言えるか

 私は、中学まで養護学校に、高校は地域の学校に行きました。
 私自身は、地域の学校でもイヤな思いをしました。高校入学当初に、クラス担任が「野崎はこんな身体だけど、高校入試は3番の成績だった」と言ったのです。担任にしてみれば、およそ善意で言った言葉だと思います。「友達になったってくれよ」みたいな感覚で言ったのだと思います。
 しかし、教師の思いに反して、同級生たちは私とは口を利いてくれなかったのです。敬して遠ざけられたのです。それ以来、私には高校で友達ができませんでした。唯一、テスト前には「ノートを貸してくれ」とだけ言われました。
 私は実は、「障害児も地域の学校に行って揉まれたほうがよい」というのは、ウソだと思っています。ウソとまでは言えなくとも、それは事後的にそう感じた障害者にしか言えないことだと思っています。その意味で、幻想にすぎない、私はそう思っています。
 では、障害児は地域の学校に行かないほうがよいのか、それもまた違うと思っています。誰がそんなことを言う権利があるというのでしょうか。どこの学校に行くのか/そもそも学校に行くのか行かないのか、そんなことを他人が決める権利などないと言いたいのです。ましてや、「就学指導」を称して決められた学校を赤の他人に指定されるなんて、原理的にはあってはならないことだと思います。
 そもそも、健常児なら「地域の学校に行くべきだ」ということそのものがおかしい、そう思うのです。学校に行くということが、そんなによいことでしょうか? 障害児が特別支援学校に行かされるように、学童期の健常児も「地域の学校」しか行く場所がない、ここが問題であると私は思うのです。子どもたちが創意工夫をして楽しめる空間がなくなっていっていることこそが、真の問題だと思うのです。
 学校が「選択」の問題ではないとするなら、どういうことであれば言えるのか、私は、教育システムによって障害児と健常児とを分断してはならない、これだけは言えると思うのです。特別支援学校の存在を肯定する教育システムというのは、障害による児童生徒の分断を正当化するものです。障害があっても、地域の学校に実質的に行くことができることが保障されるのがまずは最初の第一歩だと思うのです。「保障」というのは「そうするのが社会の義務である」という意味です。
 「この人が」どちらの学校に行くのがよいか、「この人が」学校に行ったほうがよいのか/行かなくてよいのか、については、事後的にしかわかりようがない、としか言いようがないと思うのです。どんな障害児も、「地域の学校に行ってよかった」と思うかと言えば、そうではないのです。ただ、それは学校を前提とした教育システムに乗っかっているにすぎません。教育システムのなかの分断を批判しつつ、学校を中心とした教育システムを変えていくこと、この2つが必要なのだと思っています。

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