あかりは見えているのか

昨日の会見で首相は「あかりははっきりと見え始めている」と述べた。
首相の言う「あかり」とは、あいも変わらずワクチンと治療薬だが、それを光明だと本気で思っているのだろうか、その光明が「見え始めてきた」と言っていいのだろうか。

まず、ワクチンと治療薬、これは、コロナ禍発生当初からのゴールラインである。ワクチンと治療薬ができて普及すればコロナは収束する。これまで流行した全ての伝染病に言える事でコロナも例外ではない。
政府のやるべき事は、このゴールラインにいち早く到達するべく、また、ゴールに達するまでの間いかに影響を抑えるかという政策を打つ事であったと思う。
例えばワクチン治療薬の開発に予算を出す、特例措置を取るなどは、批判を恐れて外国頼みに終始したし、ならばというところでワクチンの確保には出遅れた。
感染拡大を抑える点では失敗し医療崩壊を未然に防ぐこともしなかった。
出来なかった、とは敢えて言うまい。出来なかったのではなくやろうとしなかった、やればいくらでも出来たのに。そういう思いがあり残念である。

そもそも政治とは未然に防ぐという感覚を持っていないものなのではないかという気がしている。警察が事件を防ぐためには何もしてくれない、という話をよく聞くし最近は随分良くなってきたなんて事も言われているが、政府の方針は始めから概ね「起こったことに対応する」のに限られていたように思う。
水際で防ぐのではなく入ってきたら対応する、拡大を防ぐのではなく拡大したら対応する、医療崩壊を防ぐのではなく崩壊したら対応する、そういう感覚があるから何事も後手後手となりここまで酷い事態を招いてしまったのではないかと思う。
一方でコロナ禍で打撃を受けた業界を支援するのもそういった感覚であろう。実際に発生した経済損失に対応して行ったGoTo事業が感染拡大を引き起こすかどうかは問題としない。GoTo事業の引き起こすかもしれない感染拡大は「まだ発生していない」からだ。
こういう官僚的考え方、感覚が一貫しているように思う。

そういう政治感覚の結果、今の国内は真っ暗闇となっている。医療崩壊に対してようやく対策めいた事をやりだしたが、これも医療崩壊が予測ではなく現実となったからだ。
その暗闇の中で、最初から存在した単なる出口を「あかり」と称するのは如何なものか。現状を真っ暗にした責任を取らず、国民の目線を「あかり」に誘導する事で現状の真っ暗を誤魔化そうとしているように思える。

あかりは「見え始めてきた」のではなく最初から見えていたものだ。
あかりが明るく見えるのは現状が暗いからだ。
現状を暗くした責任を回避し、あかりを引き寄せた訳でもないのにその手柄を印象付けようと言う印象操作であるように思う。
さらには、「あかり」とはコロナ禍からの出口ではなく政権存続への希望のあかりなのではないか。だとしたらそれが見えているのは首相ひとりであり、恐らく明るく見えているのは気のせいである。

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