【ひきこもごも】 4歳〜小6

俺の一番古い記憶は家でもんじゃ焼きを食べる記憶だ。
今も昔も大好きで、両親はかなり頻繁に作ってくれたのを覚えている。

その日は4歳頃のいつかの夜で、前日だか朝だかに急にもんじゃ焼きをやる事になった。
決まってもんじゃ焼きは休みの日だったけど、その日は珍しく平日だった。
「今日はウチでもんじゃ焼きやるから皆んな食べに来なよ」なんて友達や保母さんを誘ったのを覚えている。
俺は小さい頃、何か楽しい事がある時は決まってその辺の通りすがりの人にまで話しかけて「これから〜するから一緒に来る?」なんて誘って毎回母親に怒られてたのを覚えている。
そう誘って誰かが本当に来た記憶は無いので、皆しっかりと子供の冗談と受け取ってくれていたのだろう。
その日も同じように親子3人だった。
もんじゃ焼きの準備が終わってさぁ食べるぞとなった時に何かのきっかけで両親が口論となり、かなりヒートアップして掴み合いに発展してそのまま母親の襟首を掴んで締め上げながら壁に叩き付けるようにしてそのまま押さえつけた。
母親は涙を流していた。
壁に押さえ付けられながら凄く悔しそうな、憎らしそうな顔をして涙を流している光景は今だに目に焼き付いている。
俺はその時自分が泣いていたのかも、止めようとしていたのかも、ただ見ていただけなのかも覚えて居ない。
そしてその時妹も既に一、二才だったので居た筈だが記憶には居ない。
これが人生で一番古い記憶だと思う。

その後母親は離婚し、俺と妹は何故か父親の実家で祖父と祖母と父親と父親の妹と一緒に暮らす事になったらしい。
母親が恋しくてよく泣いていたそうだ。
月一の母親と暮らす日には見た事のない笑顔で飛び付き、そして別れの時には泣いてどうしようもなかったと父方の祖母から聞いた。
そうした事もあり、父親側が親権を譲る形で俺たちは母親と一緒に暮らせる事になったのだ。
この頃の記憶は一切残っておらず、次に思い出せるのは6才くらいの頃になる。
母親は夜に近所のスナックへと働きに出る為、俺達兄妹は毎日家で留守番をしていた。
小学生にも上がっていない子供が一人で留守番は危ないからと家も近い事もあり母親の妹が子守りをしに来てくれていた。
この叔母に当たるお姉ちゃんは小6で、母親とは14才離れていた。
俺たちはお母さんに会いたくてすぐに泣く為、お姉ちゃんにお仕置きと称して虐められていた。
中でも一番怖かったのは布団で上から押さえ付けられ真っ暗な中でどんどん息が苦しくなるお仕置きだ。
このお姉ちゃんは小6にしてガタイが良く、布団の上から乗られて押さえ付けられると本当に何をやってもビクともせず何度か暴れたがその度にペナルティが重くなる為、次第に大人しく泣きながら出してくださいと懇願するようになった。
何度か脱走したり母親にチクったりしたがその度にお仕置きは追加されるし母親は仕事に行かない訳にも行かず、子守りもさせない訳にもいかずそれがしばらく続いた。
一度だけ本当にどうにかしようと思ってこのお姉ちゃんを殺そうと決意した事がある。
俺らを小間使いの様に使う面倒臭がりだったお姉ちゃんは毎回飲み物を飲む時に俺に汲んできてと頼む、その時に飲み物に食器用洗剤を入れて毒殺しようと思ったのである。
しかし子供のやる事だったので見るからに泡立って洗剤の浮いてるコップを見て一発でバレ、過去1のお仕置きを受けた。
それ以降の俺は抵抗を止めて、奴隷状態だったと思う。
それ以降の記憶はまた曖昧になり、俺が小学生に上がると同時にお姉ちゃんも中学生に上がり、俺と妹は留守番出来ると判断されたのか来なくなった。

そして今度は妹と二人で留守番する事になったのだが、妹が毎日のように泣いてお母さんに会いたいと言う。
これまたとんでもない音量で泣く為、まるでスピーカー並みだとよく言われていた。
母親に迷惑を掛けてはいけないと説得するが殆ど効かずに毎日のように家を飛び出して母親の働くスナックに向かってしまう為、しょうがなく追いかけ一緒に手を繋ぎながら着いていく。
その度に母親には怒られて、泣いてる妹を連れて家に二人で帰る。
そんな事を繰り返していく中で、何を言っても泣き止まない妹が次第にムカつき妹を殴るようになった。
言っても聞かないと殴って家に居ろと怒る。
その度に更に大泣きして家を飛び出して母親の元へと行く。
そして俺はその度に母親に怒られる。
そんな毎日が小3位まで続いたように思う。
その間俺はストレスからか寝小便が酷くて、毎日の様に母親に怒られてた。
母親の財布から金を盗り始めたのもこの時期だった。
いつだったか、母親が連れて来た既婚の男の財布を寝てる間に盗んでバレて死ぬ程怒られた。
コレを気に盗み癖が酷くなり、万引きで捕まったのは数回、母親や親戚など身内の金を盗んだ回数は数え切れない。
母親だけでも20〜30万はいったと思われる。
盗んだお金はお菓子や遊戯王カードに使い、そのカードは持っている所を3個上の従兄に見つかり没収されるのがいつもの流れだ。
従兄の家はこの頃に離婚しており、俺と妹とそれぞれ同い年の従姉二人と3個上の従兄の3人兄妹で、家も近所だったので幼馴染のように育った。
後に手を染める悪い事は大体この従兄に教わる。

そんなこんなで妹も小学生になり、俺も三年生に上がった位の頃に祖母の経営していたスナックを改装して居酒屋に変え、母親が継ぐ事になりそのまま一階が居酒屋で二階が住居の家に引っ越す事になった。
コレを機に妹も母親がすぐ下に居る安心感からか寂しくて泣くような事は無くなった。
しかし今度は妹が俺を頼らなくなったのが気に食わなかったのか妹の泣き真似をしたり怖い話をしたりして怖がらせたり揶揄うようになり、毎日のように喧嘩しては母親にチクられて怒られていた。
そのおかげで俺が中学生に上がる位まではずっと仲が悪かった。

その頃学校では小3になって、担任の先生が代わり学校で一番怖い先生になった。
ムキムキの陸上顧問の教師で、俺は日頃の夜更かしから寝坊がちだったりそもそも宿題をやらなかったり、次の日の準備という概念が無かったりなどして学校に行くたびに怒られていた。
次第に学校に行くのが嫌になりサボるようになった。
その頃丁度3個上の従兄も両親の離婚と共にグレ始めて毎日一緒に遊ぶようになった。
従兄の家は近所の団地で、従兄と遊ぶ時は俺はパシリで、何かあるとすぐに殴られたり虐められたりしていた。
それでも従兄が好きだったし一緒に遊ぶ友達も居なかったので毎日9時過ぎに従兄の家に行って一緒にゲームをしたり漫画を読んだり時には万引きしに行ったりして、夜は母親が仕事に出る17時以降に帰る。
そんな生活がずっと続いた。
不思議と親に怒られた記憶が一切無い。
恐らくだが、母親は日中寝ていた為学校の連絡は殆ど出る事は無かったのではないだろうか?
地域柄か俺の様な子供も多かった為に学校もそこまでしつこく連絡はしなかったと思われる。

そんなこんなで三年生はずいぶん遊んでサボり倒していたと思う。

そして四年生になる。
四年生に上がるタイミングで従兄も中学生に上がり、従兄の友達は不良ばかりで俺とは遊んでくれなくなった。
そして俺は代わりに学校に行く様になった。
担任が怖い男の先生から若い女の先生に代わった事も大きい。
しかし今度の若い女の先生は今までの先生と違ってサボるとしつこく連絡してきたり家まで来て母親と話したりなど熱血先生だった為、母親には毎回すぐにバレて怒られるようになった。
なので以前よりは真面目に学校に行く様になったが、今までずっと歳上とばかり遊んでいた事もあり同年代との付き合い方をあまり知らなかった。
その頃の俺は同級生に比べると大柄で太っていて、しかも従兄から殴られ慣れていたので同級生と喧嘩しても負ける事はなかった。
そうして俺はどんどん糞餓鬼へと変化してった。
いじめられっ子は同級生の前ではいじめっ子になったのだ。

そうして学校でも一応の居場所ができて、次第にサボり癖も無くなり小4の途中から卒業するまではちゃんと学校に行くようになった。

しかし友達との付き合い方を従兄を通してしか知らなかった俺は自分がムカついたらすぐに殴ったり、揶揄ったり、仲間外れにしたりと最低最悪の糞餓鬼に変貌していた。
そんな糞餓鬼も小5のある日終わりを告げる。
他校の一個上の奴らが俺たちの遊んでる公園にやってきて、喧嘩を売られたのだ。
俺はその時調子に乗りまくっていた為負けるはずが無いと思い、負けたら自分のゲームボーイアドバンスをくれてやると言いタイマンする事になった。

結果は瞬殺だった。
掴み合った瞬間に引き倒されてそのまま腕を取られて身動きも出来なくなった所に顔の真横に全力スタンピングをされた。
当たっては居ないもののその威力と迫力に完全にビビってしまい震える声で「負けました」と言ってしまった。
俺はボロ泣きだった。
悔しくて恥ずかしくて、堪えても堪えても涙が止まらずにそれを見た相手も気の毒に思ったのか賭けたゲームボーイアドバンスを返してくれる程だった。
何もかも完敗でなんとも情けなかった。
この出来事以降俺のボスとしての強さみたいものは失われ、次第に友達も少しずつ離れていき小6の終わり頃には友達は殆ど居なくなった。
当時学区の被った中学が二つあり、殆どの子供が自分で進学先を選べた。
その中で俺の選んだ中学を友達は皆んな避けてもう一つの中学を選んだ。
これ以降から中3のある時期までずっと友達は作れなかった。
話したり学校の中では付き合いのある同級生も居たが、一緒に遊べるような友達は出来なかった。

こうして俺の思春期は薄暗いヒキコモリ生活へと突入していく。

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