とある歪な人間の自伝 その4
06 ターニングポイント01
新しい場所に引っ越したとはいえ都会的な一等地に引っ越したわけではなく、またしても田舎である。今度は山の中ではないのが唯一の救いだった。
しかしS県内。実を言えば前住所から僅か80km程度しか離れていない。だから本当に厄払いのつもりで場所を変えたのだろう。
新しい学校は家からすぐ近く。目と鼻の先だ。
以前のこともあってわたしは学校に対して特別な感傷は抱けない。なんというか、学校が楽しい場所という感性はとうに無く、その正反対の位置で胡坐をかいている。笑ってしまうかもしれないが、最高に皮肉が利いていると思うんだ。
だって毎日365日、ウェストミンスターの鐘を聞くことになるんだぜ? そこに学校があると象徴するあのチャイムの音を、そして子供の喧噪を、ほぼ毎日聞くことになるんだ。いいかい、あれは日曜日も鳴るし、夏休みも冬休みもお構いなしだ。
どんなに繕っても、まともじゃいられないのは何となく理解できるんじゃないかな?
だから、というわけでもないが。わたしは自然と別の人間として生活するようになった。
環境適応能力を無理やりにアップグレードしたんだろう。いままでのわたしを隔離して、ありもしない記憶で固めて、もう一つのわたしを作り出したんだ。
親に愛されている、どこかで見たことのあるような何かの模倣。例えばドラマとか、アニメとかそういったものの猿真似だ。
要するに引き出しがなかったのさ。だから嘘で固められるものに自分を変えて構築していくしかなかった。
1~10まで嘘の自分。嘘の記憶。嘘の行動。
でもそんなものは所詮子供の防衛本能。軽率だったんだよ。ドラマやアニメは、現実世界ではあり得ない。
そのことに気づくのはもっと後の話だけど、何もない人間としてはこれを続ける他なかったんだ。
さて、話を変えよう。
アニマルセラピーという言葉がある。
動物とのふれあいによって人の心に癒しを与えること。 ストレス解消になるだけではなく、認知症やうつ病などの症状改善も期待できるとして、医療や福祉などさまざまな分野で取り入れられている。
そんな言葉を知ってか知らずか、両親は新しい犬を連れてきたんだ。
いままで居た犬はどうなったかって? 兄弟のような一緒だった犬は前の家で引っ越す前に死んだ。あまりにも現実味がわかなくて、朝にすっかり冷たくなり死後硬直した犬をぼーっと眺めていたことは覚えている。本当にあっけなく死んでしまった。
何が原因だったとか、なにが起こったかとか。そんなことを思考でめぐらす事は出来ない。
そのときあった感情は「どうして置いて行ってしまったのだろうか」「どうして一緒に居られなかったのだろうか」それだけだ。
それはきっと悲しいとかそういった感情ではないんだろう。
ただ残されたと思う感情だけが強く残っていたことはよく覚えている。
涙を流さないわたしを、両親はどう思ったのか。それはわからない。
しかし、新しい家になってわたしは新しい犬と対面する。きっと彼もわたしを置いて逝ってしまうんだろう。
それでも彼はわたしによく懐いてくれた。しばらくして彼とは親友となる。
だから偶然なのか、はたまた狙い通りなのか。わたしと彼はよく話すし、何処に行くにも一緒だった。
一方で父親はギャンブルにどっぷりとハマり、いや…ハマった度合いが2,3ランク上がった。母親は毎日のように月のお金を心配し、父親の奇行に対して毎晩喧嘩していたことを覚えてる。まあ、月50万~80万も借金して使っていれば喧嘩もしたくなるだろうが。
いまにして思えばだが、(父親もそうだが)母親は弱い人だった。自分からは改善を提案できない。そして動き出せない。だけど、不安は口にするし、「どうするの!?」「どうしたらいいの!?」と相手の指示や考えが伝わらないことをひたすらに責めるタイプの人だ。
見限ることが癖になることもなく、切り捨てられないモノをいくつも積み上げて自分で囲いを作ってしまうような女性である。おそらくだが、父親の弛まない長年の調教が板についてるんだろう。
それはそれで立派だし尊敬する部分でもあるが、当時のわたしにとってしてみれば両親はよくわからないモノであった。
他人と他人。その結びつきの意味が分からない。
家族。言葉の意味は分かる。血のつながりや、ごく限られた空間での生活を営む集団。それは法律や世間体など外的要因で固められた仕方のない問題。そんな糸で継ぎ接ぎされた便宜上の関係だと何となく理解していた。
理解していたというか、わたしはその形でしか家族を知らないのだから、家族との関係は随分と希薄なものだったのだろうと思う。
しかし外の世界で、わたしが抱くそれは特殊なもので、稀有なものだ。稀有というのは他人に不信感を与え、いらぬ問題を引き起こすこともわたしは知っている。だから嘘を重ねる。
愛するという意味など分からない。しかし、愛することの証明はテレビやドラマで参考にできるものがいくつもあった。肌を触れさすこと、肌に触れること。そこに嫌悪感はなく、わたしは痛覚すらも笑顔に変えることが出来るように自分を作り替えた。
人を信頼させるためにはよく笑うことだと思う。
笑顔を作れば相手は勝手に好意的な解釈をする。疑われない。それは子供の時分だから出来ることだと後になって知ったけど、10歳に満たない子供が笑うのだからそれだけで周りは疑わない。加えて頭の足りない自分を演出する。子供相応にムキになるような無邪気さと、向こう見ずさを時折見せなければならない。
要するに表向きは、一般的に考える子供らしさを演出しなければならない。
一般的というのはテレビやドラマにある、そういった子供でもある。例えばアニメのクレ〇ンしんちゃんの口癖や、ドラマの5つ子の考え方や性格など。それらをモンタージュすることを本能的に学び、愛嬌を身に着ける。
最初の1年は齟齬や統制が上手く行かなかった嘘も、重ねれば本当になるということをわたしは実体験から学んだわけだ。
だから、…そうだね。わたしは上手く溶け込む術をあらゆるものから習得することとなる。良くも悪くも影響されやすい、そう周囲にはとられていただろうけども。
これはいわゆる擬態と呼ぶものなんだろう。
だから本物ではない。擬態なのだからそれは何かの模倣であり、頭の先からつま先まで全部が嘘。
しかし小手先の技術は万人に通用しない。特に大人で全くの他人であればわたしに対して必ず違和感を覚えてしまう。そこでよく言われるのが「大人びている」「気持ち悪いコ」だった。
そりゃそうだと現在なら笑える。こんなガキがいたらある程度人を見ることが出来れば随分と歪に見えるだろうさ。だが、当時のわたしはそのことに気づけない。
わたしは必至だったんだ。大げさかもしれないが生きるのに必死だった。ちょっと踏み外せば同じことの繰り返しだ。そんな綱渡りにも似た状況だったならば、きっと誰だって同じ感情を抱くに違いない。
それに「普通」というものにひそかな憧れを抱いていたんだ。
幸か不幸か。わたしは偶然にも隠れ蓑を手に入れてしまう。
それが妹の異常だ。3歳になってもまったく言語を話せない一番下の妹におけるわかりやすい「異常」は、今でいうところの発達障害であり、そして異常の最たるものは難聴。つまり耳の機能が著しく悪かったんだ。
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