見出し画像

読書なんてしょーもない

今日もいつも通り、オンライン授業を受けて、本屋に行き、フラフラ帰路につき、途中、カフェを通りかかった時目に入ったガパオライスを家についてから作って、今は湯船に浸かっている。日記をサボっていたので何か書こうとして、ふと本屋のことを思い出した。よく行く本屋に足を踏み入れ前から読んでみたかった綿矢りさの小説を探す。いろんな幸せがあるわたしの人生の中に、「本を探す」というのがある。本命の小説を探している途中に目に入った全く買う予定がなかった一冊の本と、お目当てのもう一冊を抱えてレジに向かう。レジの前で少し立ち止まった。「一度読んだら最後!読み終えたくなくなる!」というポップの下に、わたしが好きな作家の本が積んである。ああ、と思いそのまま二冊レジに持って行き、ブックカバーはつけてもらわずに、ゆっくり本屋を後にした。

何のために本を読むの?とよく聞かれる、昔からだ。中学生の頃から、友達や、塾の先生や、彼氏や、クラスメイトに。なぜ?聞かれてもわたしは答えられずにいた。うまく自分の中で言語化できないというのと、きっと理解してもらえないだろう、と思ってしまうから。学校の先生はよくこう言う、「本を読む人は賢い」「語彙力が上がる」「本をよく読む生徒がいる学校は進学率がいい」エトセトラ。わたしが本を読む理由とはどれも違うなあと思っていた。確かに、語彙力を高めるため、人とのコミュニケーションを豊かにするため、知識を身につけるため、いろいろあるのだろう。全て結果的にはいいのかもしれないけれど、実際本を読んでいる人はどうしてわざわざ本を手に取り、ページをめくり、しおりを挟むのだろうか。語彙力のため?知識のため?賢くなるため?良い学校に進学するため??本当にそうか。それらが目的なら、こんな世の中、作品が溢れるほど出回ることなんてないでしょうに。

読書なんてしょーもない、とわたしは思っている。言い方は悪いが、読書なんてしょーもない。所詮、誰かが作った物語か、幻想か、言葉の羅列だ。その上でわたしは本が好きで、本を読むことが好きで、文学を愛しているのだ。どうして?わたしは本に救われたことがないし、本から何かを学んだことといえば、難しい漢字の読み方しかない。それもどうせすぐ忘れるし、本を「まだ読んでいたい」と思ったことも一度もない。そもそも、何かのために本を読んだことがないのだ。本は終わりがあるようでないところがいい。表紙や題名で数多の本の中から一冊を選び、表紙をめくり、1ページ目を巡り、たとえそこで本を閉じて、未来永劫その本を開かなかったとしても、それでいい。最後のページをめくり終えたとして、表紙をめくっただけだとして、現実はどこまで行っても地続きで、何も救われない。たかが一冊の本を読んだって人生が変わるわけじゃない、たった一回のセックスと同じように。読書は病気であり、呪いであり、毒である。あてがないほうがいいのだ。恋や散歩と同じ、ただなんの目標設定もなく、死ぬ間際のような目をして文字を追っていたって、人生に正解なんてない、と本は教えてくれる。理由なんてないけれど気持ちいいからしてしまう、それでいいだろう。「した方がいい」「何かのために」という声の下にある読書なんて、毒にも救済にもならないのだから、本を読むことで「えらいね」と言われるのも、本を読まないだけで「本は読んだほうがいいよ」と言われるのもちがう。ただ気持ちいいからすればいい。それだけでいい。ずらりと本棚に並んだ読みかけの本の背表紙を撫で、クラクラ眠りにつく。