東京弁護士会「死刑廃止」訴える


東京弁護士会は、死刑の抑止力効果が極めて薄いことから死刑執行停止決議を行った。

法学部学生や卒業生には宿命のテーマだろうか。
かつて私は死刑廃止論者だった。東京大学の団藤重光教授「死刑廃止論」が理路騒然とした内容であり、議論をする際、精緻化されていることが挙げられる。ただ、あくまでも、理論が精緻化されていることが、尊い人命が奪われて残された遺族や友人関係の権利を感情論と峻別する危険性をはじめ、加害者の権利を保護する根拠にはなり得ない。しかも、命を剥奪された被害者は人権がない以上は保護の対象ではないと福島瑞穂議員の失言が有名だが、法律学の概念では刑法及び法哲学(法理学)を根底に通説なのだ。

この廃止論を巡って陳腐化に矮小する理屈が、死刑の抑止力効果という堂々巡りだ。死刑を廃止したフランスで犯罪が減ったという統計データもあるようだが、反証するデータも多分にある。もちろん、死刑の抑止力効果があるのか定かではない中国のような道徳欠如による凶悪犯罪ケースもある以上、どの程度の抑止力効果があるなど厳格に定めることが極めて難しい。

私は、この理論ではない理屈を巡る神話的な議論に辟易した。重要なのは死刑による〝抑止力効果”ではない。

それは何か?と言うと民主主義に基づき、立憲主義を形骸化する問題だと私は考える。

現在は三権分立に基づき、権力の抑制と均衡が保たれる状況こそ立憲主義が貫徹された状態にある。当然、死刑廃止の代替として、加害者ないし被疑者を行政権がその場で即射殺するようなアメリカ合衆国(連合)のような状況は、司法権による人権保障が形骸化された最悪の事態であることは言うまでもなく、果たして緊急避難の名の下にどこまで阻却できるのか私は学生時代から甚だ疑問であった。

そうした行政権による人権剥奪以前に私が危惧するのは、我々の社会契約に基づき国家は、絶対的に死刑を課す命題を背負っていることに尽きる。
トマスホッブスの「リヴァイアサン」では「万人の番人による闘争」という自然状態では他人を当然に殺す権利があるのだ。このような状態では人は生きていけないので国家を擬制した。その際に、本来は憲法より上位規範である自然権で他人を殺す権利を保障していたにもかかわらず、国家が専断的に他人の命を奪う権利やその報復権を奪ったのだ。つまり、この時点で国家は代替として絶対に死刑を課す義務が理論的に強いと考えられる。そうでなければ、そうした死刑の作為義務を放棄する国家に対して、革命権が我々にあることはジョン・ロックの著書を読めば自明だろう。

以上から私は死刑廃止論は抑止力効果ではなく、我々の民主主義と立憲主義に基づく社会を共同体としてどのように維持するか矜恃の問題だと考える。そこに死刑の抑止力などという日弁連が高尚にも議決した内容は些末で陳腐と言わざるを得ない。

https://www.toben.or.jp/message/ikensyo/-pdf120kb.html?fbclid=IwAR2pq9gtsCzeG6vW_848954qhljyoeh6Dt4Vgn0JscNemxzizMPvwz25jGQ

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