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江戸城無血開城

どうもヤロプロ(野郎プロジェクト)のボンドです。

本日のテーマは『江戸城無血開城』、日本史ですね。

明治維新の最中、死者を1人も出さずに江戸城を明け渡したと言う、世界的に見ても類を見ない伝説的な革命です。ただ調べたから上から説明しておりますが、私最初は『江戸城無血開城』言う言葉を聞いて”字”ではなく”音”で聞いたものですから、血が流れなかったという意味の『無血』を、無欠席の『無欠』だと勘違いしてしまい、幕末に欠席者を1人も出さなかった歴史的な大会でも開かれたのかなぁ・・・なんてと思い込んでおりました・・・。

情けない限りでございます。先人の皆々様本当に申し訳ございません。

まずはお詫びを・・・


当時の時代背景

まずは時代背景ですが『江戸城無血開城』が成された年が1868年ということで今から約150年前の出来事です。そもそも江戸時代なんて太古の昔のことだと思っていましたが、僅か150年前(おばあちゃん2人分くらいかな)にまだ日本に殿様がいたのかと思うと学の無い私はいささか非常に驚きを隠せません。

この時代主に日本で何が起こっていたかと申し上げますと『江戸城無血開城』 の15年前の1853年にペリーが日本に大砲をぶっ放すというバスターコール上等の手段で開国を詰め寄り、その5年後の1858年に井伊直弼による安政の大獄にて幕府の悪口言った人全員処罰というパワハラ政治が行われ、その7年後の1865年にみんな大好き超有名な坂本龍馬が武士の傍ら亀山社中という貿易会社を副業で始めるという、まあキングダムよろしく日本めちゃくちゃ期って感じだったみたいです。

当然国民の心にも、もう鎖国無理じゃね?という感情が沸き起こっており、いよいよ幕府による統制がとれなくなってきたという頃です。


人物紹介

ここで先に無血開城に関わる人物の紹介ですが、正直『江戸城無血開城』に関係した登場人物を全て調べようと思うと、とても私どものCPUでは処理能力が追いつかないので、ここは主要だと思える人物3人をピックアップさせていただきました。


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1人目は新政府軍のリーダーを務めていた西郷隆盛。

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2人目は新政府軍に敵対する旧幕府軍の陸軍総裁であった勝海舟。

画像3

3人目は徳川幕府及び日本国において最後の将軍となった徳川慶喜の3人です。


西郷隆盛

1人目は新政府軍のリーダーを務めていた西郷隆盛。西郷隆盛は薩摩、つまり今で言う鹿児島県に武士の子として生まれました。13歳の時にケンカの仲裁に入った際に、真剣が腕に刺さり、腕を曲げることができなくなるという大怪我を負うですが、剣がダメなら相撲で強くなろう!と文字通り鍛錬の土俵を切り替えて文武の道を極めていきます。(私腕切られてそんなに前向きになれないです・・・凄い・・・)

その後、薩摩藩守島津斉彬に引き立てられ江戸で10年過ごしますが、斉彬が病死し弟である光久に代替わりすると西郷隆盛を取り巻く環境は一変し、いろいろあって二度も島流しの刑に処されてしまいます

二度目の島流しは取り分け過酷なもので、わずか4畳ほどの風雨を避ける壁もない牢獄にて猛暑や豪雨を耐え忍び、島民の助けなどもあってなんとか生き延びることができたそうですが、彼が凄いのは死と直面した状態にありながら、この島流しの期間中に1,300冊もの書物を読んでおり常人の価値観を超越した人物へと成長を遂げたことなんです。

なんなら野垂れ死にさせるための島流しですから、そこで人としての成熟するというのは西郷隆盛がもっていた胆力というものは計り知れないものがあったのだと推測されます。

その後、薩摩の地に戻り新政府軍のリーダーへと抜擢され江戸へと導かれます。


勝海舟

2人目は日本を改革した真の立役者、陸軍総裁勝海舟。生まれは江戸で西郷隆盛より5歳先輩です。武士の家系とはいえ幕府に参加できるほどの家柄ではなったのですが11代将軍家斉の孫である初之丞(はつのじょう)の遊び相手に選ばれるという掟破りの出世街道を見出すなど、アメリカンゴットタレント顔負けのドリームボーイの資質を兼ね備えておりました。

剣に長けており若くして免許を皆伝される傍ら、当時では珍しかった海外の学問『蘭学』を学ぶなど文武ともに鍛錬を怠らず、ペリー来航時に幕府へ提出した『海防意見書』が認められ30歳で晴れて幕府に登用されます。

その後、日米修好通商条約の承認のために渡米するのですがアメリカという国を目の当たりにして今のままでは世界と戦えない”」と悟り、帰国後『海軍操練所』の設立に奔走します。

ひと段落すると現在の山口県にあたる長州藩の征伐がはじまるのですが、そこで幕府軍と協力関係にあった薩摩藩のリーダー西郷隆盛と初対面を果たし「”薩摩人や長州人という考え方ではなく、日本人としてこの国を良くしていこう”」と説き、和平的な解決を実現します。(どの派閥にも属さない愛国者としての姿勢はほとほと感服いたします。)

その後、西郷隆盛は敵対していたはずの長州と同盟を結び新政府軍のリーダーとなったため、幕府側にいる勝海舟とは敵対関係として『江戸城無血開城』を迎えます。


徳川慶喜

3人目は江戸幕府そして日本における最後の将軍となった徳川慶喜。将軍というのは順番待ってれば自動的になれるものだ思っていたのですが、実際はかなりドロドロとした派閥争いがあったようで、慶喜も漏れなくその覇権争いに巻き込まれており14代将軍の座は安政の大獄にてパワハラ政治を巻き起こした井伊直弼を擁する家茂に負けてしまいます。

しかし家茂が病死したことで晴れて15代将軍の座を手中に収めることができるのですが、なんとも不運なことに将軍の椅子が回ってきたのは1866年7月、正式に将軍職に就任するのはその半年後の12月。その翌年1867年10月に大政奉還が実行され同年12月に王政復古の大号令により将軍職を剥奪されているので実質”1年半ほどしか将軍として公務を果たしていない”のです。

しかも先程の勝海舟の人物紹介で軽く触れましたが敵対していたはずの薩摩藩と長州藩は坂本龍馬の計らいで同盟を結んでおり幕府に中指立てて攻め入ろうと鼻息を荒げているわけですから、ある意味でいえば戦国を生き抜いた徳川家康よりも、過酷な将軍職だったのではなかろうかと推測できます。


主要3人と時系列

『江戸城無血開城』の主要人物となる『西郷隆盛』『勝海舟』『徳川慶喜』の3人を紹介してきました。時系列を整理すると

1853年ペリー来航

1858年井伊直弼の安政の大獄

1865年坂本龍馬亀山社中設立

1866年3月薩摩藩と長州藩が同盟を結び討幕を掲げる

1866年7月14代将軍家茂が病死する

1866年12月慶喜が15代将軍に就任

1867年10月大政奉還

1867年12月王政復古の大号令

という流れでしたが、ここでさらっと登場してきた『大政奉還』『王政復古の大号令』という明治維新二大ビッグイベントについて説明させていただきます。


大政奉還と王政復古の大号令

これは今まで幕府が握っていた政治の実権を朝廷に返すというもので、狙いとしては、幕府が政治の実権を手放せば、幕府の政治に対して中指を立てていた薩長をはじめとする新政府軍から戦う理由そのものを奪い去ることができるという、非常に合理的且つ和平的な解決策として実行された施策でございます。

しかしこの策は形式上は朝廷に政治の実権を返すのですが、実際は徳川家が隠れて政治を操るという大和田常務顔負けの裏工作がなされており、それを知った新政府軍が倍返しとして幕府そのものの廃止を公言したのが王政復古の大号令というわけです。

王政復古の大号令は天皇公認で『幕府廃止』を明言しているため、事実上この時点で明治維新が成立したはずなのですが、さすがは最後の将軍慶喜公、あれやこれやと画策して、一度は幕府廃止を公言した天皇に『政治続けていいよ』と言わせてしまうという10倍返しを成功させます。

要はこの時点では明治維新は失敗に終わったということです。死んでも土下座しませんこの人。凄い。というか、大政奉還で先手打って王政復古の大号令をくらったのにも関わらず更にひっくり返すって、慶喜めちゃくちゃ頭良くないですか?

兎にも角にも新政府軍としては、時代の流れに乗ってはいるものの頭脳戦ではことごとく惨敗・・・・

「もういいや、だったら喧嘩しようぜ!」ということで、日本の行く末を決める戊辰戦争へと突入していきます。


江戸城無血開城

いよいよクライマックスということで、戊辰戦争開戦から江戸城無血開城までの流れをもう一度ザックリ説明すると、1868年1月3日に京都の南に位置する鳥羽・伏見で開戦し、新政府軍有利の状態で進軍を続け僅か3ヶ月後の3月15日には江戸城に総攻撃を仕掛けるというところまで攻め込みます。

新政府軍としては『鳳仙ブッ潰して鈴蘭がトップってところ見せてやろうぜ!』という気持ちがありますし、なによりここまで圧倒的な勝利を収めてきているので、士気が最高潮に達しております。

頭脳戦では慶喜にいいようにやられていましたが、殴り合いとなれば誰の目から見てもゴリマッチョの新政府軍が勝利するのは目に見えていました。しかし、ここで黙ってやられないのが土下座しない大和田常務こと慶喜公。幕府軍を指揮していた勝海舟を交渉人として薩摩藩邸に送り込み殴り合いではなく話し合いで勝負をつけないか?と持ちかるわけです。

これを承諾するのが新政府軍のリーダーである西郷隆盛。三者とも数々の戦場や敗者の行く末を目にしてきたにも関わらず、最後の大一番に話し合いを持ち掛ける徳川慶喜の眼力、相手の敵陣に乗り込んでそれを実行する勝海舟の度胸、血が沸る武士を収めて話し合いに応じる西郷隆盛の懐の深さ、全てが常軌を逸した究極の判断だったと思います。

私のような小物であればこの話し合いで如何に自分たちの利益を残すかという交渉をしてしまうところですが、三者の共通の利益となったのは『江戸に住む国民の命』。これから新しい国を築いていこうという時に、そもそも国を創る人がいなくては話にならない。であれば、血を流さずに勝負を決するのが唯一にして最良の手ではないかということです。いやぁ天晴れですね。

敵同士とはいえ目的が共通だったということは、それは同志だとか考えていいのではないでしょうか。幕末のロマンを感じますね。

ということで、4月11日一滴の血も流さず江戸城を開け渡すという『江戸城無血開城』がここに成立したわけであります。徳川慶喜は将軍の座を降り水戸にて謹慎処分、同年7月に江戸を東京へと改名、9月に元号を明治へと改元ということで、王政復古の大号令ではなく『江戸城無血開城』こそが、真の意味で明治維新を成した出来事だったというわけであります。


まとめ

今回は『江戸城無血開城』について調べさせていただきました。私個人としては知らないことだらけで日本人として恥ずかしい限りではございましたが、日本という国が大転換を迎えたこの時期にこのようなドラマがあったことを知ることができて大変満足しております。

また、『勝海舟』『西郷隆盛』『徳川慶喜』という3人の登場人物が如何に偉大な人物であったかを知ることができたことも、これから大人として教養を深めていく上で大変貴重な学びとなりました。これからも野郎プロジェクトではこのような「”大人として知らないと恥ずかしいこと”」や「”それ知ってたら人生もっと楽しめる”」という、自分たちの経験をベースとした一般常識や社会情勢をご紹介していこうと思います。

とはいえ我々の脳みそは3世代ほど旧型のCPUをフル稼働させて調査を行なっているため、解説内容も去ることながら知識の面で不足や間違いがある恐れもございます・・・・

そのため大変図々しいお願いではありますが、コメント欄にて皆様の叡智をお借りしウィキペディアのように知識の補完をしていただき、みなさまと一緒に作っていけるコンテンツになれば幸いかと思っおりますので、我々と共に学びを深めていくというスタンスでご感想やご意見お待ちしております。

週に1回くらいのペースで投稿していければと思っておりますので、また来週お会いしましょう。最後までありがとうございました。

※解説している暦は天保暦を使用しております。天保暦とは1844年~1872年まで使用された太陰暦で、現在使われている太陽暦とは若干日付がズレているためご注意ください。

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