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創作審神者アクスタと自己拡散性と山姥切に目覚めた話

刀剣乱舞にハマってはや9年。

自分の分身こと、創作審神者の古瀬君のジオラマアクスタを作ってみた。

創作審神者(古瀬君)アクスタ

背景はもちひげが書いた「焼肉定食」と、髭切の本体。左にちっさいもちひざが飾られてる。どういうことなの・・・。

もちと写真撮って動画に

そして2024年3月現在、うちに居るもちもちマスコット刀剣男士たちと写真を撮って、動画にしてみた。くぁあああいいいいい!!!!!

個性があふれる。超おもしろかっこいい。なんじゃこりゃ

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顎のせ用の台つけたけど、こてってなるもちきよとかもちくもさんとか。

もちきよと俺
もちくもさんと俺

もちのりの顎のシャープさに気づいたりとか。おもろいな。

もちのりと俺

あとやっぱどう見てもデカすぎんだろ・・・!って感じのもち五郎(膝丸再版ロット)ともち筥ちゃん(もちマスmini)とか。

もち五郎と俺
もち筥てゃんと俺
通常のもちひざ

なんで作ったのか?

自分の中身は確かにサラリーマンで現実を生きる者ではあるんですけど、なんかそのまま写真撮るのはちょっとなんか違うっていうか。自分はサラリーマンをしている時以外は基本的に偽名っていうか。

SNSをしている時の自認とか、ゲームをしている時の自認とかが、その、サラリーマンをしている時の自分とは違う存在っていう感覚があって、何かそれを形にしてみたって感じ。

コスプレをする時の自分もまた別の自認があって、なんか、地続きではあるけど、枝葉に分かれた様々な自己がある。

自己拡散性の話

ポケモンZが先日発表された。

その時に「そういえば、ポケモンシリーズで唯一、ポケモンリーグ行けずにやめてしまったのあるな・・・XYだ」と思い出した。

今日ちょっと考えていた、審神者の話と、ポケモンXYあんまり出来なかった話、実は繋がっている。

わしは自分を主人公にして物語に没入ができない。

いわゆる夢女っていうものの感覚がないといいますか。知覚できる神経がないという言い方になります。 多分幼少期からの家庭環境から来ていてヤングケアラーかつ愛着障害だったと思われるので、まあ仕方ない。

それで、数年前に買った季刊エスの胎児さんという方の記事がまさに私だな、と思ったんですけど、「男の子になりたかった自分」というのは確実に居て、それを捨てたら自我崩壊するんだなぁと。

XYの時、一度「女子主人公」でやってみたが全然進まなくて、なんだろうな、自我としてやろうとすると無理であった。

カロス地方に置いてきた我がポケモン達は、時が止まったままリーグにも行けず、かわいそうなことをした。

その後様々なゲームで「自我の分身」をたくさん使って、時には仮想空間の中で彼氏も彼女も結婚も…とし、ついに生身の自我も結婚したが、全くもってそこには「女子主人公」が居ない。 審神者の名前も便宜上垢名と一致させているが、納得感は無い。そこには「物語」は無い。

神視点で俯瞰する時に初めて自我が幸福を感じる。

脚本家で居たいということだ、と思われる。

だから「2024年は、もっと出してこ!自我!」とわしが言った場合、それは「ペルソナ出します!」になるので、つまり今より分霊化が激しくなるという、一見矛盾した状況になる。 が、エントロピー増大の方向なんだなぁと捉えると、熱力学的には自然な方向なわけだ。

自己が分散されている方が落ち着くのは、そのようにせねば現実が過酷すぎてとても小学校低学年の精神が持たなかった、というのもあるだろうなと。

その時から生まれ続けて一向に統合されない自我の分霊を後方彼氏面的立ち位置でニコニコ眺めているのが良い、というわけだから プレイアブルキャラと、それを操作する神視点の2視点が常に必要で、憑依型ポエムを読む時は大体「いま、プレイアブルキャラに憑依してるんだわ自分!」って意識しながら読んでるから、「出力物としては一人称だけど、その出力方法は確実に二次創作」といえて、つまりめちゃくちゃ夢っぽいが似て非なる、というややこしい状態がわし。

何者かにならなくていいのは確実にそうだしそれは人にそうあれと押し付けることでもない。 ならなくてもいいが、何者かにならなければ自我を保てない奴もまあいるので、その辺は難しい。

自由に生きて良いよと言われたら何も出来なくなる。

不自由さがないと自己拡散する。

錨がなければ。ある程度は。

2024年3月 X(Twitter)

多分「何か俯瞰した視点」でいないと、共感性であっという間に自他境界が無くなってしまう。しんどそうな人を見たら自分も一緒にしんどくなり、怒りに満ちたポストの海に浮かんでいたら自分も怒りの感情に支配されてしまう。

目に見える形で「これは自分の分霊」ってしとくのは何か落ち着く。

という訳でなんか色々、創作審神者っていう自分の分霊を通して刀剣男士との関係に向き合ってみる。

山姥切国広について

どこかのタイミングでまんばちゃんの話まとめようと思っていた。

上記のとおり、自分自身の自己認識もあやふやな中、ちょうど一年前くらに、突然山姥切国広の良さに気づいてしまってもう毎日大変なクソデカき感情で溢れる。感情の湖が琵琶湖くらいになってきた。もうすぐカスピ海になる。

確かにもともと「長義は何か好き・・・」ってなっていた。

わしが初見で長義に感じた感情は間違ってなかったが、ここまでたどり着くまでに長かったな、道のりが。今は「テメーの第一印象を信じろ!」と自信を持って思っているし、山姥切長義を好きになれたから、山姥切国広にも興味をもてたんだと思う。わしはわりと古参審神者だが未だにまんばのレベルは低い。

長義は一番最初にレベルカンストした刀剣男士だった。初期刀よりも先に、だ。最推しの源氏兄弟や、初鍛刀よりも。誰よりも先にLv99になったのは長義。でもずっと何だか、腑に落ちない解釈の狭間にいた。無双の初カンストも長義だったな。気に入ってたのに、解像度が低かった。

(でも山姥切国広はそんなでも無かった)

なぜか。なぜだろう。

2023年4月 X(Twitter)

この時は「なぜだろう」で終わってるけど、創作審神者アクスタを作った今ならわかる。

まんばちゃんと向き合えるフェーズに、自分がやっと追いついた、ってことだな。

今更なんだけど、今、愛を叫んでしまってる。自信をもって。

"今"から愛する山姥切

こないだ3/22にKING OF PRISMの「ビッグなお知らせ」があって、改めてキンプリ曲を聴いていた時に「Pride」という曲がたまたま前野智昭だったこともあるけど、なんか、気付いてしまったのでクソ長ぇ呟きした。

きっとここまで思考を巡らせられること自体、この8年間で自分の俯瞰視点とか経験値が増したからだと思う。

山姥切国広に対してなんでこんな今ズブズブなんかってのは、速水ヒロがなんでプラであんな「コウジィ……;;」なのか?てのとだいぶ近しい。

マジで初期のわしの山姥切国広への「無」具合はむしろ「嫌い寄りの無」であった。

その過去も関係している。

嫌い要素を並べるのは紳士的では無いので書かないが、とにかく「無」であって、しかし「圧倒的芸術的暴力で殴られる」感覚も受けていたという……シャインのようだよ。そこだけは。

なぜならわしは鏡音レンのオタクだったため「金髪碧眼」は大好きな「美」だったわけで。 でも「理解し難い偶像」がその圧倒的芸術的暴力でそこに居て、まあまあしんどかったですね。

「好きになるはずだが…」みたいのがまずあって(単純に絵柄も超好き)、でも分からな過ぎて。良さが。

それはプリズムの煌めきを浴びる前、KING OF PRISM前のわしの、オタク的リビドーと倫理観との葛藤がそこにはあったな。

今、そのかつての負なる感情やロストしてきたであろう様々な出会い、その機会損失への悔しさとかに対して、歴史改変して遡って愛をやり直そうとかは思わなく

今、なんだな。

今、気づいた今、だろ?違うだろ?すべてが。他の奴とは。

他の奴がリリース当初から山姥切国広の良さに惹かれて順当に歴史を積み重ねて来たその月日の分、お出しされるものの厚みはすごくて、それを「すごい!」「この人のように」「自分も」となる、それこそプリズムの煌めきってやつなんで、その、今思った今その瞬間に、やるだけなんだよな、己のプリズムショーを。

負の過去もすべて抱えて進むんだよな。それがPride階段。

アンパンマン履修してなかったら、お腹がすいて泣いている子に手を差し伸べようとしなかったり、前線に出ない仲間とも協力することで支え合い成し遂げる正義とか、そういう倫理観を得られなかったか?というとそうではないかもしれないが、「原体験」というのは本人が自覚できないところで履修しておりもはや血と骨のレベルで備わってしまっているものではある。

いちいち自覚しなくても「基本的な正義の指標」はまあアンパンマンあたりで得たんじゃないかなって何となく思いながら生きてる。

それくらいの感覚で「こいつの良い所を10個挙げてって言われてスラスラ言えるのはKING OF PRISMで得たからや」と思うくらいの、感情の原体験があったのであろう。

見る目が変わりました、とも言える。
山姥切国広を見る目が変わりました、ってことです。

そのきっかけとしては無双だったり刀ミュだったり、トリガーは別に「KING OF PRISMを見たから」では無かった。だけど、そのトリガーに手をかけるフェーズにすらかつての自分では行けなかったんだから、この順番じゃなけりゃダメだったんですよ。

KING OF PRISM→無双→刀ミュで。だんだん育って、だんだんわかった、ってことよ。

序盤にもしめちゃくちゃ感受性が近くてスッと入ってくる解釈ド一致の人に出会ってたら違ったかもしれんが、その土俵にすらかつてのわしでは自力でたどり着くことは出来ていなかったであろう。

特にこの有象無象の解釈とヘキに溢れる大海の中では。

しかも結局それも他人の感情をコピーしてぇの上書き保存でしかないから、ホントに心の底からの感情じゃないですね。それは自分自身が許さないでしょう。

2024年3月末 X(Twitter)

そう、結局、今はまだ感情の前借りをしているような状態で、ツケ払うことになるんだろうな・・・って思った。

だから、足利の山姥切國廣の本体に会う前に、自分自身の自己拡散性を一旦整理しようと思った。

今やらねえと!って思った。そのプリズムの煌めきが形として出力されたものが、創作審神者アクスタってことなんじゃないか。整理しよう。

まず、俺はこういうやつです。って芯をしっかり持ったうえで考えたいんだよね、まんばちゃんのことを。

たゃと俺

山姥切問題は「Pride」

多分これはもう自分がKING OF PRISMのオタク過ぎて避けて通れなかった運命だと思うんですけど、速水ヒロと神浜コウジの関係性について悶々と考えてきた歴史が、山姥切問題の複雑な入れ子構造を理解するためにわしが通るべき道だったな、って今は思うてます。

とってもわかりにくい、本歌と写しのこの関係性を、自分の中でやっと腑に落ちる解釈ができるようになってきた。(まだ考えている・・・)

でもきっとこれなんだよ。山姥切国広のサビはこれなのよ。

Hiro&ChugiがデビューシングルPrideを発表した時の画像

本歌があっての、写しではあるんですけど、その本歌ってのが「霊剣 山姥切」か・・・??本当に???っていうのを、もう今更すぎるけど、やっとここに気づき始めたんすよ、わしは。

でもな、このことを腑に落ちて、自分の解釈で、自分の言葉で語ろうとするにはな、やっぱ、語り部たる自分自身の立場をはっきりしとくべきなんや。よりセンシティブで、難しい、人によってきっと解釈の異なる・・・、この複雑極まりない山姥切国広と山姥切長義、伯仲の二振りに向き合う時は・・・・

今!!!!そう今!!!!!!今年やっとけ!!!!!!!!

もう少し脳内が整理されたら、また山姥切についての解釈をまとめる。
今はとりあえず、刀ミュ現地に行って、脳を焼かれてくる(^_-)-☆