刀ミュ感想:みちはす ~ある意味、祭でした~
はじめに
※このnoteはミュージカル刀剣乱舞「道奥一蓮」のネタバレを含む感想noteです。
※刀剣乱舞の他メディアミックスだけでなく、ガンダムとか進撃とかキンプリとかまさかの「なんかちいさくてかわいいやつ」など、他のオタクメディアコンテンツからも引用して語ったりします。
※それでもおKな勇者だけが、改行して読んでください(^_-)-☆
みちのおくひとつはちす、上演開始おめでとうございます。
もうこのメンバー観ただけで「くsssssssssssssっそデカき感情の、くsssssssssssssっそ因果な話やるやろ」っておもとったね、オタク。
ストーリー的前作の「花影ゆれる砥水」は、ほとんど新顔メンバーでしたがね、今回は皆もう祭で世話になった、少なくとも初見ではない”見知った刀達”ですからね。雰囲気ちょっとちゃいますね。
新しい物語に出会うワクワク!というよりも、何か、これまで見届けた来た物語をもう一度掬いあげて、今の自分の価値観で編み込むようなことが必要そうな・・・。
刀ミュ感想
初見感想第一はこれ
とりあえずこれだけ言わせてください。
「 「 「 大 包 平 大 感 謝 祭 2 0 2 4 」 」 」
もうこれに尽きる。これです。これだった。アアーーーーーーーーお前が居て良かった!!!!!ありがとう大包平!!!!!!ありがとう、存在にありがとう!!!!!!!!!!
まず泣いていましたよ私は。なんか結構な時間目に涙を溜めながら見ていたんですよ。限界オタク、すぐ泣く。
光があったので、もう大丈夫だわ、ってなったんすよね。それが「大包平大感謝祭」なんですよね。
冒頭申し上げました通り、わしは現在山姥切国広に審神者8年目にして初めてハマってしまったので、普段からこのように狂っているのですが
山姥切先輩、まじで良かったよ。ホント良かった。どうしてこんなに良かったの・・・青雲、それは、君が見た光。
光がよ、あったのよ・・・そこによォ・・・・・・・大包平!!!
大包平という光がよ、そこにはあったんよ。
誤字ってるけど・・・・
どうしてこんなに大感謝祭なのかということを後で語ります。
征夷大将軍
今回の出陣は平安末期、征夷大将軍坂上田村麻呂が「征夷」つまり蝦夷の討伐をなさるということでしたがね・・・もうさっそくこう、源氏オタク的にはぞわっとするんですがね。征夷大将軍ってのはもともとこの「蝦夷討伐」って意味だもんね・・・・・・。
ある意味「天下をとる」という状態が「征夷大将軍になる」と同じ意味だと思って覚えろって中学の歴史の先生が言ってた気がすんよ。だからこの後、この「征夷大将軍の道」の先には頼朝だったり尊氏だったり家康だったりが続くんだすなぁ・・・と思って、まさに、はじまりの人であろうなと。
そしてこの東北という地が、この刀ミュ本丸のはじまりの出陣、阿津賀志山異聞の舞台でもある、ということも。
加州と三日月が居ることで思い出される。
これは本作を観たからこそ出る感想だが、今回どっちかというと、阿弖流為と母禮と坂上田村麻呂の話が~って「人」の方にフォーカスした感じやなくて、「この地」であることの重要性が高かったように思う。
この時代、この地への出陣であることの意味がな、特に三日月宗近にとってデカいんやろうなと。
捧げられた心臓の行く末
このままでは勝てない。勝てない戦にどうして身を投じるのか。阿弖流為と母禮に「お前達は生きてくれ」と身代わりとなって逃がそうとする彼らからは、江水の「お前が知ってる」が脳内で流れながら、もう既にここで結構うるっときてしまっていた。(早)
んで「なんでこのシーンにこんなにぐわってくるんやろ」と思った時に、その受け止められる器というのが、諫山先生に育ててもらった感受性やな、と思ったんですなあ進撃のオタクは。
捧げられる心臓の重みって、数じゃないんですよ。
パライソの鶴さんが訴えて来る。
わしですらこうだから、きっと「進撃の巨人」-the Musical-でエレン・イェーガーその人を演じたくるむ君はもっと背負ってる感情があるんやろうなと思ってしまう。
「この地に生まれ この地に生き この地を愛し」なんだよな。
「場所も時代も 選べないけど 僕たちは ここに生まれ落ちた」からなんだよな。
パライソを観て、進撃を見届けて、じゃあ、自分は何か行動として変われたことあるか?っていうと、正直、何もない。
そこには、ちっぽけな人間のエゴだけがある。わかったような気になっている。自分には捧げられる心臓がない。
結局、大陸のどこかの戦争の話なんやなーって流してる。
好きなことをして生きている。
正義も悪も、天国も地獄も、その境界線の見分け方もわからない世界に生きている。
でもただせめて自覚的ではありたいと思う。自分が「わかった気になったように舞い上がっている」ということには。
そのように客観的にいようとする努力を諦めないようにはしたく・・・そのあがきがまさにパライソの鶴丸であったり、心覚の水心子であったなと感じる。
思考と対話を諦めない
まだあまりまとまった答えは出てこないんですけど、多分大包平大感謝祭の内訳の一つは、大包平と水心子が諦めなかったことかなと。
その結果としてあの山姥切先輩の、加州に対する小突きや七味として出力されているのであろうなと。
水心子は考えすぎて思考に飲み込まれる節がある。境界が曖昧になる。そこに蜂須賀が線引きをしてくれる。おやつに無垢に喜ぶ水心子という、現実的な「今ここにいる水心子」という存在を肯定する。それはとてもありがたい。
こと、自分、メタ的には、Twitterで本名でなくて「アカウント名」という仮面を被って、「アカウント名の奴」として発言しながらも、現実では現実の名で呼ばれて生活をしている自分が居るわけで。その思考を巡らす時、何かを発言する時、「己は何として」そのことを考えるのか?ということは常に気を付けたい。
これまでの刀ミュの出陣にあって、今回の出陣になかったもののひとつが「刀剣男士が歴史上の人物に成り代わる」ことだった。
逆に、水心子が「己」として調べものをしたり、三日月の思考をわかりたいとアプローチした。それ結構大事だったかな、と思った。
そしてそれって「思考」っていう”「己」で完結すること”ではなくて、他者も居て成立する「対話」なんだと思った。
その「対話」ってどうやればいいのってのが、大包平が示してたと思った。
だから、大包平感謝祭2024、なんです。
光じゃん、の正体がだんだんわかってきたかも。
多分わしの中で、水心子はすごいやつなんだよ!はそうなんだが、水心子だけでは無理だな!ていうのもあって、大包平がいてホント良かったっていうか・・・水心子が進もうとしている未来は、大包平がそれまでの古参たちが踏みしめてきた”道”をしっかり踏んづけて通れるようにしてからじゃないと繋がらない未来だな、と思う。
めちゃくちゃ抽象的な表現になってしまう・・・オオオ・・・宗教っぽい。
でも結局また”道”の話をしてんすよね。進撃です。”道”は、過去も未来も同時に存在している。本来地続きであるはずの概念ですが。
古参や、それを見守って来た加州・蜂須賀世代の刀達は、その道に線を引いてしまっている。
違うんだよね。
大包平は、そのことを言っている。と思った。繋がってんだよね。言わなきゃ、わかんないんだよね。教えてもらわなきゃ。
それで、その大包平の価値観が、もともと大包平がもってたものだけがそうなのかっていうと、違う気がしてて、ここでわしは江水クソデカ感情を思い出しました。
大包平の中にある「兼さん」
鶴丸と三日月のやり取りが「最近Xで見た!!!!!ちいかわやん!!!!!!!」ってなって一気にパラレルワールドハチワレ君のことを思い出しましたね。
でもその3秒後には「もしもの話は嫌いだ!」って脳内の兼さんが歌い出したんですよ。
そして、この価値観を受け取った大包平のことも考えた。大包平は江水を経て、兼さんからたくさん貰ったと思う。言葉で貰ったものは少なかったかもしれんが、兼さんの刀剣男士としての背中見て一番成長したのは大包平だったんちゃうかと思う。
大包平がもともと持ってた潔さとか声のデカさとか態度のデカさとかは、それをブーストする。それ、とはつまり「刀剣男士としての生き様」だったり「魂」みたいなもんだろう。
兼さんのそれは、兼さんが走ってきた「天狼傳」だったり「むすはじ」の中で土方さんの背中見て、そんで修行にも行って極めてきたとっておきのもの。
わしは自分が刀剣乱舞の二次創作をする中でも、極の修行ってすげえ大事な儀式だなあって思ってるから、極の兼さんから受け取った価値観が大包平の中にもある、って考えたら、大包平の光の正体が江水で得たものだと思いたくなる。
To the North 北へ~・・・・北には夢があるんです。北を目指して人々はゆく。この地が東北ならば、その先、五稜郭へ行った土方さんはまさに最先端の男。まだ「すえひろがり」の正宗殿と武揚の豪華コラボが記憶に新しい中、やはりこの奥州という地がなにやら特別な地なのかなァとか思う。
「あつかし」のラストは今剣ちゃんの修行で終わるが、その後、ストーリーには絡んできていないので、結構でかいダークホース的な仕込みだなあといまだに思っている・・・。
今剣ちゃんの極の修行ってそらもう衝撃的というか、あれのお陰で(?)わしがどれだけ兄者の修行を恐れおののき、こんな震える膝丸君の絵まで描いたと思います・・・??と様々な感情が駆け巡ります。
あの刀ミュの無垢の権化たる今剣ちゃんが極の価値観をもってもう一度阿津賀志山へ行ったならば、あの出陣は確実に違う物語になっていたであろうな。それは他のどの刀でもなく、今剣という「物語の刀剣」だからだ。
水心子は「江おん」を経たし、花当番もしているという中で、水心子の中にもまた「水心子がもともと持ってる勉強熱心さ」以上の経験値、物語が紡ぐ力とか、この本丸で過ごす、仲間との絆とかを知ってる。
つまり、大包平には大包平が経験して得た価値観が、水心子には水心子が経験して得た価値観が、それぞれあって、それらが推進力となって、この行きつく先の見えない大河を進む、って感じです。
そのふたりの価値観の中には兼さんであったり、豊前であったり、他の刀が見せてくれたものがある。それが「私の中に貴方はいます」なんですね、ラクス・・・・・・。
三日月の仕事の仕方
「私の中に貴方はいます」これが、願いとも呪いとも言える。阿弖流為が、仲間たちに捧げられた心臓を背負って生きる、圧ともなりうる。
三日月はそのひとつひとつを、愛してしまうが故の、あの行動なのか。
未だにわからない。わかったような気でいて、まだ全然わからない。
大包平からしたら「口に出して言え!!!」はホントそうではある。でも何か、思考と対話を諦めなければ、道は通じるような気もした。わし的に本作品の最終的な感情としては、結構明るい印象だった。光はある。
蝦夷の子どもに耳をふさがれ「ボクのは聞かなくていいよ」って言われる三日月。あそこからずっと泣いた。なんかそれが全てだと思った、三日月宗近の行動原理の。
受け止めきれないはずなのに、聞きたい奴なんだ三日月はよォ・・・それを塞がれちゃうのよ。自分まだやれます!!やらせてください!!なんですけど、血吐きながら仕事してんだよ。とっくに給料分は仕事しきってるんだけど、残業してやってしまう。(なんて普段のわしなのだ・・・スマン)
それが鶴丸からしたらクッソむかつくね。お前のこと皆が見てんだよね。お前の仕事の仕方見て後輩たちは仕事してんだよね。
見られてるってこと自覚してんのか?って思ってそうね。純粋に友達だからってのもあるだろうけど、鶴さんって後輩のことすげえ考えとるやんか~~~・・・仕事の仕方が常に「お前ら、よく見とけよ」なんですよ。
何が言いたいかというと、鶴さんはめちゃくちゃシゴデキだし、後輩が自分を見てることも、後輩が三日月を見てることもわかって、だから定時退社しろ!!!刀剣男士だろ!!!刀剣男士という枠の中で仕事しろ!!!って言ってるんですけど、三日月はやりたいことある残業マンなんすよ。そんな奴いると迷惑ですよ。自分の身を滅ぼしてまで仕事してそれが果たして「仕事できました」ってことに・・・ならんのよ。公私混同とかも・・・だめなんよ!
ここは本丸、みんなで戦う場所なんですよ。みんなが、テメェを見てんだよ、三日月。
鶴さんは三日月がボロボロになることも許せないし、後輩にそれを見せちゃってる三日月のことも許せないし、その想いがわかるからこそ止めなきゃいけないのに止めきれてない自分にもむかついてて、ぐおーーーってなってそう。
鶴丸の仕事の仕方
「あおさく」で初めて出てきたクソ強鶴丸国永のことを思い出す。
そういえばあの時、鶴さん検非違使とタイマン張ってましたね・・・。みちはすを経た今、鶴さんのタイマンバトルの重みがまた増してきてしまったわ・・・。
それはともかく、あの頃からもうずっと、鶴丸国永の仕事の仕方が好きすぎなんすわ。
この頃に既に思ってたんだよな。鶴さんは後輩とか子どもたち、つまり「未来」をとても大切にしているな。
わしは本作において水心子が「未来」の象徴かな、と思ってて、その水心子が三日月をおびき出すための餌にされるようなことになって、一瞬どきっとしてしまったが、水心子自身もそれを否定しなかったというか、受け入れてたっぽいのが(もっと怒っても良いはずだった)、根底に鶴さんがそもそも「未来」を大事にしてる、そういう背中を見せてきたからかなーとか思った。
そんで、鶴さんって雑っぽいけど後始末は考えてる・・・から、あとで水心子にごめんなって言う。
実際自分がこうして3年前に同じようなこと言ってるわけだから。それを一緒に過ごしてる水心子が感じ取ってないはずないだろうな。
だから、まあ、つまり、信頼があるんだろうと。鶴丸国永、なんやかんや。好かれてて、慕われてると思われる。
だから松井と桑名呼ぶあの謎の顕現の儀式も務まる、という・・・ただ病んで暴れてる先輩に、皆ついてこない。三日月じゃだめで、鶴丸じゃないと務まらん、のだと思われる。
考察
ざざざーの二振りについて
ここまで来て、最後にこの話をする。
受け取ったクソデカ感情は概ね書ききったので、最後に考察パートに入ります。(突然)
もうほぼPTSDじゃん!!!ってなった、あの三日月宗近のザザザーの記憶は、誰かが折れる衝撃的な出陣の記憶のようです。
隊長
・山姥切国広
ほか
・三日月宗近
・鶴丸国永
・ほぼ確定した、「桜を植えよう」のひと 歌仙兼定
・「本丸のことは○○か○○に聞いてください」の1振り
この出陣が6振りであったなら
・残りもう1振り
現在水心子が把握している本丸の刀の数に比べて、桜の木は1本多い ということなのですが、これが「歌仙が言い出して以降始まった習慣」で、「その時点で既に顕現していた刀の分は植えていない」だったら、必ずしも歌仙=折れた刀とも限らんな?と思いました。
三日月が折れた刀を探してる っていうのは何だか安直な気がして、折れた刀が1振りいて、それのせいで歌仙がなにか「不可逆な存在」だったり、「時の政府にまつろわぬ存在」になったのではないか?と考えています。(たとえば行方不明だとか、石切丸さんが陥りそうになった闇落ちとかが候補になる)
だとした場合に、歌仙がそんな風になるなら誰だろうって考えたら、自分の中には「小夜左文字」「燭台切光忠」が2大候補として上がってきてます。
という感じですが、他の方の意見を見てみると、明石国行の闇に言及している人もいたり、古参のもう一振りが、陸奥守吉行か青江では?とされている方も見ました。
まだまだ考える必要がある。
まだまだ、思考と対話をやめない。
考え続けている。