昭和天皇

今のイメージとしては、戦前の動乱の時代と戦後の復興という60年を超える治世は、今が卑屈にみえるほど大きな存在で、ノスタルジーと歴史の重みで語るのも憚れる存在になっている。しかし、崩御までのその時代を生きた人間として言わせてもらえば、当時、戦争責任という点で批判の矛先になって否定的なイメージが大きかった。

実際の個人としての昭和天皇は、沖縄で子供たちにもらった花束を侍従が回収しようとしても手放さなかったり、戦争への憤りを持っていて、それは今の上皇、平成天皇にも受け継がれた。

平成の時代に主に団塊ジュニア世代から批判の的になっていた日教組。昭和天皇の戦争責任を追求する社会の先生は多かった。また、その日教組時代は管理教育で問題のある教師が多かった。中にはヤクザみたいな教師もいた。左翼批判としての日教組批判はこれらがごっちゃになっているが、天皇の戦争責任を追及する教師は教師としてはそのような問題のある教師ではなかった。

昭和天皇の崩御のタイミングで何が起きたかというと、このような昭和天皇の戦争責任を追及していた教師たちがいっせいに元気がなくなり、老けていったことだ。これが私が見た昭和の終わりだった。これらを含めて昭和であり、これらを除いた昭和はあり得なかった。

昭和は西暦との対応で昭和55年は1980年、昭和60年は1985年と5年のズレなので西暦との対応もしやすかった。終戦の年はと言われて、1945年と答えるよりも昭和二十年と答える人がほとんどだった。平成も和暦が廃れていった時代だが、令和になると令和で年を言う人はもう数少なくなった。

しかし、時代を忘れないという意味で、これからも和暦は推奨していきたい。外国人がどれだけ入ってきたとしてもだ。

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