邪馬壹(ヤマイ)国説と中国の写本歴史考証
卑弥呼の継承者、壹與(イヨ)を始め、神武天皇の和風諡号、イハレヒコ。神武天皇の兄の五瀬命(イツセノミコト)。崇神天皇、垂仁天皇の和風諡号、イニヱ、イサチ。垂仁天皇の子、五十瓊敷入彦(イニシキイリヒコ)。そして、時代が経って、継体天皇と衝突した筑紫君、磐井(イハイ)まで、主に九州系の古代人物には、「イ」から始まる名前が多い。それと、『邪馬台国は無かった』を書いた古田武彦氏の邪馬壹(ヤマイ)国説を組み合わせて、上記リンク先の文章を書いた。つまり、魏から二心が無いとしてもらった「壹」の字は九州ルーツの王朝に引き継がれてきたという説を書いた。
古田武彦氏の九州王朝説は、現在から見ると綻びが見えてしまっているが、出発点である邪馬壹国説は今から見ても間違っていない。魏志倭人伝の行程記事の読み方は最も考証的だ。仮説の上に仮説を建てて結論付けてしまった九州王朝説を言わなければ、学会は今でも頭が上がらないだろう。学会はそれまで何をやってきたんだという感じだ。
現在残っている『三国志』は原本ではなく、12世紀の写本で誤写があり得たというのが学説になっている。敦煌から出土した三国志の写本が原文写本と大きく異なるという事例もある。ただ、それは内容を移す写本と、正史としての写本では性格が異なる。『後漢書』を書いた范曄と同時代人、裴松之は陳寿の『三国志』に注をつけたが、裴松之から見て、陳寿の記述が間違っていると思った箇所も、原文には手を付けず、注という形で追記する。中国の正史の歴史考証は古代から近代と同等の考証が行われてきた。
日本の『先代旧事本紀』は古事記、日本書紀に記載のないソースも残しているが、日本書紀や時代時代の名称でアップデートされて、しかも元ソースと辻褄が合わないアップデートもされ、酷いソースとなり、偽書扱いされている。
原文写本に「景初二年」と書いている難斗米の魏へ派遣を景初三年一月に崩御した明帝を明記して「明帝景初三年六月」と書いてあるのは日本書紀のみとなるが、日本に伝わった『三国志』は正史としての写本ではなく、敦煌から出土した写本のように内容を移す写本だった可能性がある。そこには「明帝景初三年六月」と書いてあったのかもしれない。
日本の太宰府天満宮にのみ残る唐初に書かれた『翰苑』の注には、『後漢書』の引用として、『後漢書』にない「倭面上國」の記述がある。倭国王帥升を『後漢書』の原文は単に「倭國王」とするが、『翰苑』には「倭面上國王」と書いている。また、逸文でしか現存しない『魏略』の邪馬台国行程記事もある。そこでは魏志倭人伝の不彌国、奴国、投馬国、邪馬台国の行程の記載がなく、伊都国までの記載になっている。また、三国志原文の「邪馬壹」(ヤマイ)ではなく、後漢書の通り、「邪馬臺」(ヤマタイ)と記載される。本文で「壹與」(イヨ)は「臺與」(トヨ)と記載される。難斗米の魏へ派遣は「景初二年」ではなく、「景初三年」で記載する。
『翰苑』が陳寿が参照したであろう元ソースの『魏略』を残してるとも言えるが、「倭面上國」のように『後漢書』原文よりもアップデートされてしまい、原文を正確に残す写本ではなく、内容を伝える写本として性格を持ってしまっている可能性もあるのだ。
『後漢書』も原本は残っていなく、残っているのは南宋時代の写本だ。南朝梁の劉昭が注を付けているが、『後漢書』を書いた范曄が取り入れなかった内容を注記しているという。劉昭注のように現在残っている注もあるだろうが、現在残っていない注が『翰苑』の引用では原文に昇格した可能性がある。また、『後漢書』については『三国志』よりも写本が多く残っているが、写本ごとの異同・誤刻は4914箇所に上るという。
『後漢書』、『翰苑』をそのまま信じれば、邪馬壹(ヤマイ)国説は否定することになるが、逆にここまで『三国志』の記述が否定されつつ、原文が変えられずに残ったということは、「邪馬壹」、「壹與」、「景初二年」は異同・誤刻ではなく、陳寿はそう書いたことの証明になる。中国の歴史考証において誤りと認識された原文をわざとそのまま残したのだ。
『後漢書』を書いた范曄は南朝宋の官僚だったため、もうヤマトとして遣使した倭の五王の一人、倭王讃を知っていた。これ以降の中国の日本(倭)認識がヤマトになるのは当然で、そこで「邪馬壹」(ヤマイ)は「邪馬臺」(ヤマタイ)になった。
「景初二年」問題については下記で書いた。
また、北宋前期に書かれた『冊府元亀』には「倭國女王壹與遣使」の記載がある。ここでは「臺」ではなく、「壹」の字が採用されている。「邪馬臺」(ヤマタイ)は南北朝~唐までの中国側の歴史認識だったことがわかり、宋代には原文が再採用されている。唐までは「ヤマト」から「日本」への継続性を認識する必要があったが、北宋からは「日本」が定着し、それを認識する必要が無くなったことを意味している。
『旧唐書』は唐滅亡後の五代十国時代に書かれている。ここまで倭から日本への経緯に着目していることがわかる。日本では倭の字は「ワ」の音読みだけでなく、「ヤマト」の訓読みも当てる。遣唐使時代になっても、日本側はかなり誇大に語るので、中国側もそれを疑いながら、考証していたことがわかる。
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