神武天皇陵

現在、宮内庁が指定している四条ミサンザイ古墳は八角墳だが、江戸時代は神武田(じぶのた)と呼ばれ、直径7メートルと5メートルの2つの小丘が並ぶ荒れ地だった。本年出版された『神武天皇の歴史学』では、神武天皇の実在性や、古代からの神武天皇に対する歴史観を追うものではなく、この神武田が神武天皇陵に比定される経緯を江戸時代から追うものになっている。古代の天皇陵の所在は代々伝えられておらず、中世で所在がわからなくなっている。江戸時代前半の元禄の修陵で探索が行われ、幕末の文久の修陵で現在宮内庁が指定する古墳に落ち着いた。

元禄の修陵では、江戸幕府が公式に認めた神武天皇陵は現綏靖天皇陵の四条塚山古墳だった。神武田とはすぐ隣にある。こちらは明らかな古墳で円墳だ。古事記には神武天皇陵は「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」と記載があり、国学者本居宣長は畝傍(うねび)山の麓の平地にある神武田、塚山古墳共におかしいとし、最初は綏靖天皇が名前の由来と思われるスイセン塚古墳を神武天皇陵としたが、後に丸山と呼ばれた畝火山の尾根上の丘を神武天皇陵とした。その近代的に見えるロジカルな比定に対し、議論を呼び、奉行、幕府、朝廷といった公側が神武田を神武天皇陵に比定する経緯が『神武天皇の歴史学』では追うことが出来、神話の時代だから歴史学になりえないというのではなく、各時代の歴史観の経緯を追うことも歴史学になるというのが趣旨になる。

始まりは元禄の修陵からだが、寛政の改革で知られる江戸時代中期の寛政時代に『山稜志』により遡ってそれ以前の様子も伺うことが出来る。蒲生君平が現地で聞き取ったところによれば、

  1. 神武田は元々、神武天皇の墓ではなく、祠廟があり、大水によって流された。

  2. 神武田の隣には国源寺があったがそれも移転した。

現在の国源寺は江戸時代の大窪村にあることから大窪寺とも言われ、現在も存在している。平安時代に僧侶が神武の化身に会ったという伝説から建立された。つまり、神武田の2つの小丘は古墳ではなく、国源寺の跡だった。その国源寺も古代までは遡らない。

それではロジックとして正しい丸山説採用されなかった点について、『神武天皇の歴史学』でも細かく解説されているが、私から見て当時の時代背景から下記ニ点が大きいと思う。

  1. 神武田を耕すと呪われるという伝説が当時あった。

  2. 丸山は当時被差別部落の村の中にあった。

私の祖父の時代にも、土着の迷信は残っており、人には迷信と言いつつ、本音では信じて恐怖しているというものがあった。現代でもオカルトや都市伝説という形で残っている。そういったものの影響力は今よりも大きかったと思われる。神話が教科書に歴史事実として書かれるといった政治的な皇国史観と言うよりも、土着の感覚の影響というものが近代的ロジックよりも優先された時代だったのだ。そういう歴史学というよりも文化人類学的な時代認識が興味深かった。

また、今はポリコレとか、わざわざ自分がマイノリティーとマウントを取りたいがためのものが横行し、本当にそれは差別なのかわからないものも多いが、時代認識の歴史を追うことで本当の差別の本質を追うことも出来る。

まず、神武天皇の実在性はゼロと言われないが極めて疑わしい。畝傍山周辺は元々、大伴氏の根拠地だった。天武天皇が壬申の乱で功があったこの大伴氏の根拠地を藤原京という首都に指定し、ここを大和の建国の源流と位置づけた。神武天皇の存在は、記紀の編纂を始めた天武天皇の意向が大きく働いている。

なので、丸山も塚山もスイゼン塚も大伴氏の古墳と推測出来る。「スイゼン塚」という名前自体、漢風諡号の綏靖天皇から来ていおり、古代から伝わっているのなら、和風諡号でヌノカワ塚となるはずだ。歴史事実としての神武天皇を論ずるならば、丸山が神武天皇の真陵という議論の経緯も全て無駄にはなるのだが、議論の経緯となる社会背景、その議論の歴史が与えた社会への影響は見過ごすことは出来ない。

私の家系は伊予大野に繋がる可能性がある。そうすると大伴氏はご先祖さまになる。これも神武天皇同様極めて疑わしい仮説ではあるのだが、この地を訪れた時、国家神道にも関わらず、何か親和性を感じたものだった。私の家の地方には「美濃の系図倒れ」という言葉があり、系図を金で買って家が倒れるということを指している。この時代の系図というものもかなりいい加減で養子縁組も親戚の代まで続いた。実際の血筋なんかどこで途絶えていたかわかりようもない。そんなものがアイデンティティの拠り所として大きかった時代もあり、現在の私にさえ少なからず影響を与えている。


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