Chat-GPTと人造人間17号と時間泥棒

小学生の頃、ドラゴンボールが大好きだった。
毎日お風呂で気をためる練習をしていたし、目をつぶっては、舞空術で空を飛ぶ妄想に浸っていた。
子どもの頃は、主人公の悟空がどんどん強くなる姿にワクワクしたものだけど、
最近、ふと思い出したシーンがある。

それは30巻、人造人間編、主人公孫悟空の敵である人造人間たちのやりとりの場面。
人造人間たちは、悟空を襲うために家へ向かうとするのだけど、その移動手段として車を選ぶのだった。
この「車でいく」というのが、小学生の僕にはよくわからなかった。

なぜなら、彼らは、空を飛べるから。
車いらなくない?と思っていた。

作中、人造人間のメンバー内でも意見がわれていた。
「わざわざクルマでいくなんてムダなことを。」
「飛べば、数分で着くぞ。」
すると、リーダーが言った。
「その無駄が楽しいんじゃないか。」
そういってクルマでドライブをはじめる呑気な敵一味なのだった。

このシーンは、ストーリーの進行上はほとんど影響がない。
そこに当時は退屈さを感じていたのだけど、それが逆に記憶にひっかかったのだろう。(今思えば、こうした人間味が描かれているからこそ、敵にも魅力を感じるのだなと納得だけど。)

「その無駄が楽しいんじゃないか」

こどもの頃に聞いた17号の言葉を、令和AI時代の今、思い出す。
目的の場所まで、空を飛べばひとっ飛び。
いうならば、目的まで最短距離でいける。
タイパもいい、コスパもいい。
だけど、そうしない。

着くことが目的ではあるけど、その道のりも目的地と同じくらい楽しみたいから。

なんて意味づけすること自体が野暮なのだろうけど。
登場人物たちの一見地味で不毛な行動に滲み出る生き方というのか、作者の鳥山先生の価値観というのか、そのシーンの記憶がこのタイミングで蘇り、惹かれるのだった。

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最近話題のChatーGPT。
進化し続けるAIと人はどのように付き合っていくのか。
そんなニュースや事象を目にする機会が増えていく中で、思い出したのがこのシーンだった。

「無駄だから楽しいんじゃないか。」

これって、進化し続けるAIに対する人間の向き合い方として、けっこう真をついてるように思う。

noteでも、AI編集者という機能ができて、例えば僕の分野だと「こども、環境」とキーワードをいれると、それだけでなかなか立派な構成や書き出し文を作ってくれるから驚いた。むしろ僕の文よりずっとスッキリしていた。笑

だけど、AIがどれだけあらゆることを効率的にやってくれようとも、こっちとしては、そこじゃないんだよなぁと思う。

ただ、自分でやるのが好きなんだもの。

自身で無駄を楽しめたら、
自身で行為の余白を彩れたら、
どんなにAIの進化や効率化が進もうとも関係ないのかもしれない。

「自分でやる」という充実感に勝るものはないと思うから。

タイパを突き詰めた先に何があるのか。

効率化を突き詰めた先に何があるのか。

モモの世界で、時間泥棒に奪われたものは、時間ではない。

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