無理解で非寛容な世界 その先に

今日は、「身寄りなし問題研究会」という団体の催し物で、妻と新潟市まで行ってきた。同会の月一の勉強会には、妻と一緒に先々月から伺っている。

今回のゲストは、田中五八生(いわお)さん。新潟ダルクという依存症リハビリ施設の施設長である。

田中さんには、かつて私が主宰しているインターネットラジオ「まわしよみラジオ」にも出演していただいたことがある。元ヤクザで、元覚せい剤中毒者である。

まわしよみラジオ 田中五八生さん出演回

今回は、ラジオでは聞けなかった彼の幼少期の経験や、してダルク入所からそこでの生活の様子など、また新潟ダルクという施設について具体的な話を伺った。とても興味深く拝聴させていただいた。

今回伺った「新潟ダルク」という施設には、様々な生育史をもった依存症のある方々が、共同生活を通して依存状態から克服しようと努力されている施設である。薬物依存だけではなく、アルコール依存、それからクレプトマニア(病的窃盗、窃盗症)などで苦しんでいる方々も入所している。彼らに共通しているのは、それぞれに、形はどうであれなんらかの”生きづらさ”を抱えている、ということである。

お話の中で印象に残ったことのひとつは、かつて施設が移動することになったときに、移動先の反対住人のなかで、反対する動きがあったということと、不安を払しょくするために、住民への説明などの機会を設けたということだった。その話を聞いて思い出したのは、私の地元長岡市で少年学院(少年院)が建設されたときの経緯だった。当時、多くの地域住民によって施設が建てられることが反対されたということだった。現在、長岡の少年学院は、年に一度、市民を対象に見学会が行われている。そうすることで、地域住民に対する同施設の理解を促すことに目的があるようだ。

自分にとって未知なものや、慣れていないものに対して人は不安や恐怖を感じる。それは本能的に理解できる。ましてや、少年院や刑務所、公正施設などといった”反社会的”と思われるような人々が収容されている施設の存在に不安を感じ、極力排除してしまいたがる気持ちは理解できる。自分もきっと当事者だったら、そのような行動をとってしまうだろう。

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ただ、そこで少し立ち止まってほしいのだ。その、自分の中から生じてくる、不安や恐怖といった感情は、どこから湧き上がってくるものなのだろうか。その感情を自分の中で勝手に増幅・膨張させて、必要以上に相手を歪曲化してみていないだろうかと。

相手に対するこれら不安や恐怖といった感情の増幅は、相手という存在を知らないことから来るものではないだろうか。

そして、これらの不安や恐怖を払しょくするためには、まずは相手を知ることから始めなければならいない。

そのためにはどうすればよいか。相手を知るために、お互いになるべく同じ空間と時間を共有すること。今回の場合、同じ場所で話し合ったり、一緒に作業をしてみることだ。そうすることによって、自分も相手も、同程度の強さと弱さを持った存在である、ということに徐々に気づかされていくのではないだろうか。

そうしたときに、はじめて相手を容認する下地ができてくるのではないだろうか。

さて、私は今、「容認」という言葉を使った。容認とは文字通り、相手を認めることだ。「理解」でも「受容」でもない、ただただ、相手のことを一人の存在として、認めること。理解できなくてもいい、受容できなくてもいい。ただただ、自分と同じ存在価値を持った一人の人間として、その存在を肯定することが大切であると考えている。

そこに、主義、主張、考え方の違いはない。ただただ、相手の存在を認めることこそが必要となってくるのではないだろうか。

依存症があっても、依存症がなくても、犯罪歴があっても、犯罪歴がなくても、相手も自分も一人の同じ価値をもつ人間。そして、お互いに学びあう価値、必要がある。そのために、お互いに共存していく必要があると思っている。

公正施設や刑務所、こういった施設を受け入れる市町村は、かなり重要な決断を迫られることになると思う。

ただ、こういう施設をうけいれられる市町村は、逆に言えば彼らに対する理解や共感を得られるという素晴らしい機会にめぐまれることができるともいえるだろう。

誰もがみんなある種の生きづらさを抱えている。

そんな生きづらさを、認識し合い、お互いを認め合いながら、共生していく。そんな優しい世界を作る第一歩は、こういった施設の入所者たちを知ろうとする態度、そんなところから始まるのかもしれないな、と思った一日であった。

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