土方巽 1960 しずかな家-4/27

コンセプト

●黄金町(あるいは横浜)ならではの土方巽観を提示する
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土方巽というと60年安保など激動の時代と重ね合わせて語られることが少なくない。しかしそれは東京からみた土方巽だ。
横浜からみた場合、土方巽は「ナイトクラブが華やかだった横浜にショーで稼ぎにやって来たまだ無名のダンサー」である。

→ナイトクラブを媒介にして、横浜の黄金時代と土方巽がむすびつく

→よその土地ではあり得ない、横浜ならではの土方巽物語が立ち上がる

→かつて黄金町の川向こうにもナイトクラブがあった。この店を媒介にして土方と黄金町の物語に拡がりを持たせ、土地の物語としての必然性を強める。
●時代に左右されない黄金町の素地を提示する

→水の町

→天然温泉(黒湯)、湧き水、水屋の歴史、大岡川、温泉旅館など黄金町界隈は水との関わりが深い

→同時に、水との関わりは失われた物語でもある

●黄金町を舞台にした作品を作る場合、レジデントアーチストの多くは黄金町の日常にアクセスしようとする。これは、芝居用語で言うところの「世話物」の世界に相当する。そうではなく、大河ドラマのような時代を跨いだ物語を展開する

→大河ドラマの多くがそうであるように、悲劇性が高まり、メランコリックな傾向が高まる。登場人物が神話化され、英雄譚的な要素も生じる。

●誤解された歴史の修正

「戦前の黄金町は普通の住宅地だった」と語る人は少なくない。しかし下町然とした現在の街並みを前提として「普通の住宅地」と説明した場合、戦前も下町だったという印象を与えてしまう。

→じつは戦争を挟んで大きな断絶がある。それは麻薬とか売春とかという部分だけではない。戦前の野毛から野毛山、そして黄金町(正確には野毛山の山裾にあたる赤門町の一部)から日ノ出町に至る一帯がお屋敷町だったという過去を紹介したい。おそらく殆どの人は、この事実を知らないものと思われる。

→正確には野毛山がお屋敷町だったのは、関東大震災までである。震災により野毛山は壊滅的な被害を受け、公園という全く新しい形で復興していた。とはいえ戦争の影響がなかったわけではなく、野毛山は戦時中は陸軍に、終戦後は米軍に接収されていた。

→横浜市長公舎が野毛山に位置しているのも、野毛山がお屋敷町だった頃の名残だと思われる。

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