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表現したいという気持ちさえあれば。
前回の月極広告社を書いてから、自分の中に第二次俵万智さんブームが来ている。
家にはサラダ記念日をはじめとした歌集はもちろん、俵万智さんが書かれた「りんごの涙」というエッセイ本もあったので、久々に読み返してみた。
※今さらながら「エッセイ」ってなんなんだろうと思って調べると、下記の通りの言葉が出てきました。
自由な形式で、気軽に自分の意見などを述べた散文。随筆。随想。
誰かの日記のような個人的なものが、本となっているのもすごいが、それを買って読むほどに面白いものに仕上げているのもすごい。やっぱり表現者としての才能が、はじめから違うのだろうか。
そんなことを思っていると「りんごの涙」に、何かを始めて続けていくことに関する題材があった。
「初めの一歩、そして二歩」という小見出しがつけられた文章には、音楽家の林光さんとの会話が書かれている。
音楽も短歌も何かを表現するということに関して共通しているのだろうが、その第一歩は少し異なる描かれ方をしている。
"音楽の場合、その必要性を認めて励もうと思えるような年頃になってからでは、もう手遅れなのだそうだ。わけもわからぬ幼少時から訓練されないと身につかないものがあるという。"
確かに今からピアノを始めても、海外でも活躍するようなピアニストになるのはかなり難しいだろう。幼少期から習い事としてスタートしても、初めの一歩で辞めてしまう人も多い気がする。(そういえば、小さい頃の習い事で楽しかった思い出があまりない・・・)
これに対して「短歌には、そういう基礎訓練のようなものはありますか?」と聞かれた俵万智さんは、短歌の初めの一歩についてこう書いている。
"初めの一歩とは、言うまでもなく言葉。そして幸いなことに私達は、それこそわけもわからぬ幼少時から訓練されて、日本語を身につけている。言葉のバイエルは、みな卒業ずみなのだ。だから短歌に関しては、手遅れということはありえない。表現したいという気持ちさえあれば。"
この第一歩は、短歌に限らず「何か文章を書いて表現する人」全てに当てはまるのでないかと思う。
国語の授業で書いた答案。
夏休みの課題で提出した読書感想文。
友達に送ったメールの文章。
いつでも自分の生活の周りには言葉や文章が溢れていたし、間違いなく毎日触れていたのだと思う。
才能があるとか、センスがあるとかそういったものも確かにあるだろうけど。文章で表現することに関しては、誰もが初めの一歩を必ず踏み出しているのである。
「表現したいと言う気持ちさえあれば」
二歩目、三歩目を踏み出すには十分すぎる言葉ではないだろうか。
"どんな第一歩も、どこまで歩けるかはわからない。けれど二歩目を踏み出すのは自分。歩きつづけるのも自分。"
りんごの涙 俵万智
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