見出し画像

映画「ニンフォマニアック」のモザイク有り無し問題と感想

 ラース・フォン・トリアー監督の映画「ニンフォマニアック」を見ました。
 配信で見たせいか、性器が写っていてもモザイクが入ってなかったのですが、日本の映画館やDVDなどで見た場合は当然モザイクがかかっていたと思って「あれれ」と思いました。
 結論から言うと「ニンフォマニアック」においては性器の状態が物語に組み込まれているため、モザイク無しで見ないと意味が伝わりません。なので、これからご覧になる方は、配信で見たほうが良いと思います。(僕はU-NEXTで見ました)

 以下ネタバレ有。
 ほとんどの場面ではモザイクがあってもほぼほぼ理解できるのですが、問題はラストです。主人公の女性ジョーを受け入れ理解と共感を見せた修道士のような男性セリグマン。ジョーが心を許した後にジョーをレイプしようとしますが、この場面でセリグマンの性器が「勃起していない」事を意図的に描いています。これってモザイクがあったらわかりません。
 神のしもべの様なセリグマンが何故?と観客が考える時に勃起してるのとしてないのでは意味がまるきり違います。勃起してれば「ああ、世の中の人間なんてこんなものよね?」になるかもしれません。
 でも映画が描いてるのはそうではなく、勃起しないセリグマンの行動の意味を考えさせる仕掛けです。だから、モザイク有で見てしまったら僕もつまんない映画と思ったかもしれません。
 性器が写ったら駄目、という文化の弊害のひとつですね。

 ここからは感想。
 「ニンフォマニアック」という映画は性交場面がやたらと多いエロ映画、、、的な受け止められ方をされてるようで、そのせいか日本では評価が高くないようです。しかし観ればわかるようにエロというよりも「色情狂と自称する女性の半生を語るうちに、そこにある精神性が浮かんでくる映画」であって宗教(信仰)的な映画です。
 ジョーが性交する男性を引っかけるくだりは「釣り」と比較されますが、これは「すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」  そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」という新訳聖書の事だと思われますし、バッハの曲「主イエス・キリストよ、汝に呼ばわる」を二人で聴き、イコンを眺めるくだりはタルコフスキーを想起せざるをえません。また、SMで体を傷つけたり元恋人にボコボコにされるジョーと磔刑台に向かうキリストが酷い暴力を受ける姿が比較されますし、ジョーが自ら堕胎するのも当然マリア的なものと比較されます。
 ジョーの話を聴くセリグマンは観客の善良なる部分の象徴ですが、話を聴いていくうちに性的に奔放なジョーは「色情狂とかではなく、自身の内なる性欲という声に導かれてすべてを失いつつも精神的高みに向かう求道者」に見え始めます。
 自身の中にある「性欲」から目をそらさず、実践と検証を繰り返し、周囲の人間から罵倒され社会から逸脱し、夫も子供も失い、自らの体を壊し突き進む姿はイエス・キリスト的なものとすら感じます。

 そこで、問題のラストシーンなのですが、修道士のように本と知識の海で暮らしジョーを理解しようと努めるセリグマンが、何故ジョーを襲うにいたったのかです。しかも勃起しないで。
 これは観客が好きに考えれば良いのですが、僕は今のところ2つの考えが浮かんでいます。一つ目は「悪魔の介入」です。(イエス・キリスト的な)ジョーを貶めるために悪魔がセリグマンを乗っ取って襲いに行く、セリグマンの意思によって男性器が勃起しないけれどジョーに人殺しをさせる事には成功する、、、という解釈。もう一つは、セリグマン自身が何かをジョーに伝えるために「襲って見せた」(だから勃起していない)という解釈。こちらのほうはセリグマンの意思を考えるのが難しいのですが、「人を信じるな」とか「世界とはこうしたものだから立ち止まるな」とか伝えようとしたとかかも・・・とモヤモヤ考えています。いずれもう少し言語化できるかもしれません。
 ジョーの側から見れば、セリグマンと話す中で、自分を振り返りある程度の自己肯定感を持つことができるようになったのだけど、セリグマンを殺してしまい更に孤独な人生を歩むことになります。求道者とは孤独に生きるしかないのかもしれません。ジョーとセリグマンの二人の求道者が「支え合おう」とすることにより起こった悲劇ともいえますね。セリグマンにしてみればジョーこそ悪魔だったのかもしれません。

 
 今まで何となく嫌で見なかったトリアーの映画ですが、「メランコリア」もすごく良かったし今後は見ていこうと思います。
 

 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?