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春愁 序

ただいま。
今日も仏壇に線香を焚き、彼が好きだった糸印煎餅と煎茶を備え、手を合わせる。
おかえり。
どこからともなく声が聞こえた気がした。

季節は巡る。
私が変わっても、環境が変わっても、変わらない景色がそこにある。
小さな町工場の前。
一角に佇む桜の木。
寂しそうに、それできて地に根をしっかりと張るその姿にどことなく遠い昔の懐かしさと強さを感じる。

あれはいつのことだっただろうか。
共働きだった両親の代わりに、いつも私と一緒にいてくれたのは祖父母だった。
小学校からランドセルを背負って元気よく玄関を開けると、必ず温かい日光のような笑顔が待っていた。
祖父母の真ん中で両手を繋がれて、近所の蕎麦屋「瀧のや」へ向かう。
「やっぱり鴨南そばかな」
「わたくしは鍋焼きうどんかしら」
祖父は決まって鴨南そば、祖母は1年中夏の暑い時にも決まって鍋焼きうどんを注文する。
他のおうどんも食べた方がいいのに。
いつも、そう思っていた。

「おいしかったねぇ。」
「帰ったら糸印煎餅でお茶にしましょうか」

テレビを点け、日経平均をノートに書き留める祖父、台所でコトコト音を立てながら夕飯の支度をする祖母。
その背中を見つめていると、なんだか言葉にならない無類の愛を感じることができた。
15時から始まる大相撲。
祖父と応援している力士を、唾を呑み込んで見つめる。
いつか家族で行った国技館、その立ち合いの、その気迫を、臨場感を、画面の奥からひしと感じた。
今、あの時間が貴い。
それを日常として、当たり前のように過ごした幼い日の自分に柔らかに、嫉妬心を抱く。
同じ時は二度とないんだと、その瞬間を胸に刻んでほしい。
今の私がそこにいたのならば、そう諭しただろう。
あの頃は、戻らない時間があることなど知る由もなかった。
愛する者がその人生に幕を下ろし、我々の目の前から姿を消す、それをまだ経験しなかった故に。

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