故事成語「作法自毙」 人情を無視して改革するとこうなる
今回は「作法自毙(zuò fǎ zì bì)」という成語を紹介します。たとえ国の制度改革が必要であっても人情(周り人の感情)に配慮せずにそれを強行した場合、改革者(秦の商鞅)はどういう結末を迎えるのかという教訓も学ぶことができます。
【成語】
作法自毙(zuò fǎ zì bì)
【意味】
自分が作った法律で自分を滅ぼす。自業自得。
【出典】司馬遷『史記』商君列伝(前漢)
謀反の罪を着せられた商鞅(秦の宰相)は国境の関所まで逃亡し、宿屋に泊まろうとした。宿屋の主人は訪問客が商鞅であるとは知らずにこう述べた。
「商鞅様が制定された法律では、(役所が発行した)身分証を持たない人物を宿屋に泊めた場合、店主もまた連座の罪となります」
これを聞き、身分証を持たない商鞅は「ああ、新法を制定した弊害がこんな結果をもたらすとは!」と嘆息した。
【歴史背景】
商鞅は衛の出身。衛の公族系のために衛鞅(えいおう)とも呼ばれた。秦において国政改革・富国強兵を成功させ、後に秦の商・於の地に封じられた(そのため商君鞅とも呼ばれる)が、改革の実行過程で多くの貴族の利益を奪い、その反感を買った。
『史記』商君列伝には次のように記されている。
商鞅が秦の孝公の下で宰相をつとめていた期間、彼が実施した法律が相当に厳しく、秦の貴族からの反感や恨みを買った。(商鞅を支持していた)孝公が亡くなった後、太子の恵文王が即位した。この時に商鞅にかねてより恨みを持っていた新王の後見役の公子虔ら反商君派が、彼に謀反の罪を被せようとした。
商鞅は秦から逃亡して魏に入国しようとしたが、魏の王族の公子昂はかつて商鞅の策略にはめられ、軍隊を失った過去があったため、その受け入れを拒否した。商鞅はやむを得ず秦に戻り、兵を集めて決起したが、敗走して殺害された。その遺体は恵文王により見せしめとして車裂の刑に処せられ、身体は引き裂かれて曝しものとなり、その一族もみな殺害された。
【用例】
他处心积虑要整垮同事,结果受惩罚的反是自己,真是作法自毙。
(彼はあれこれと計画を立てて同僚を陥れようとしたが、逆に自分が処分を受けることになった。これは全く自業自得だ。)
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