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なぐさめられない

小学6年生の娘の中学受験が終わった。終わって、私は自分がどうなっているのかまだ分からない。

自分の顔が自分でないような、まだ何もかも嘘のような、感じだ。


2月3日の夕方、気持ちが悪いと言って、娘は吐いて下痢をした。ウイルス性の胃腸炎と分かったのは次の日のことで、コロナかもしれないと思った。胃が空っぽになっても、喉を鳴らしながらとにかく吐いた。布団に座って次の嘔吐を待ち、その間はずっと、頭を撫でて、お腹をさすって、とせがんだ。

夫はぐったりした娘を見ながら、信じられないという顔で、傍らの私に非難の目を向ける。夜は食べてない。昼には、駅裏の惣菜店で買った焼き鳥とマカロンの乗ったケーキ(食べたのはイチゴを少しとマカロンひとつだけ)を食べた。そんなに悪いものだったろうか。

父親の顔がドアの向こうに消えるのを見て、娘は熱の中から起き上がり、じっと私を見て言った。ママは慰めてくれようとしたんでしょ。わたしのこと、慰めてくれようとしたのよね。首をかしげて、言い聞かせるように言った。

うん、としか答えられなくて、目をこする。


やっと寝ついた娘のそばを離れて、洗い物をする。私が濃厚接触なら、洗い物して良いんだろうか。兄である息子がやってきて、ママも大変だねという。あしたはどうする?と聞くので、熱がまだ39度だしね、抗原検査もしてみるけど、無理だろうねと答える。

ああ、かわいそうになぁ、と息子は言う。やっと自分と同じことを思ってくれる人がいた、とおもう。

息子にポツポツ、話してみる。2月2日昨日のことをだ。第一志望校の2回目の試験を受けたいという、本人の気持ちを優先させたのは間違ってなかったろうか。もうこんな熱ではどこも受けれないのだから、せめて元気だった昨日、本人が合格しやすい学校を受けていれば。あの時、娘が好きなようにさせてやろうとしたのは、思い通りに受験をさせてあげようといえば聞こえがいいけれど、なんか私も調子に乗ってなかったか、もっと用意周到に決断すべきだったんじゃないか。

そんな後悔を口にすると、息子は、それはあとから言えることだよね、という。そこだって落ちるかもしれないから、そのときにはやっぱり第一志望を受ければよかったって後悔するかもしれない。

それにさ、そういうときって引くに引けないんじゃないの?俺もさ、ポーカーをやるんだけど、これ以上続けると、負けるってわかっていても、ひけないことってあるんだよね。わかっていてもね。そういうことってあるよ。一度乗ってしまったから降りれないことってあるよ。息子は、そう言った。



次の日の朝、まだ娘は高熱で、抗原検査は陰性だったが、もちろん受験にはいけなかった。昼にはかかりつけ医の発熱外来にでかけ、胃腸炎ですね、と診断され、午後は私も寝ようと娘のベッドの横に寝袋をしいて横になっていた。そこに、初日に受けた学校から合格の電話があり、辛くも受験は終わったのだった。娘は布団で目を見開いて、受け止め方がわからないようだった。息子は立ち上がって、「ほら、言ったでしょう、2日目の選択は間違ってなかったんだよ」と笑って、肩を叩いてくれた。


あれから数日して娘は胃腸炎が回復し、学校へ行き始めた。今になって、受験大変だったよねと子どもたちに控えめに同意を求めてみても、当の本人たちは、いつの話?まだママはそんなこと言ってるの?といった様子で、関心は次へ移り、もう新しい顔をして、新しい季節を謳歌している。


昨日のことをいつまでも思い出そうとしているのは私だけだ。

暗い夜に、すっとひとの形になって私を慰めようとした子どもたちの顔を思い出している。私はなにもできなかったし、これからもできないんだろう。間違いは今に始まったことではない、ずっと前から、あべこべで、間違っているだろう。正気でない時もあるだろう。それでいいのではない、私は私をもっとおさめていきたい。賢くなりたいのだ。動物のように体を絞って吐くようなことに子どもを導かないように。だから、まだなぐさめられてはならない。今しばらく、自分について考える。