「語りえぬ言葉」展に向けて(思考の備忘録)
(作家との対話から、思考の備忘録)
大谷さんが言う、「語りえぬ言葉」の中には、一体何があるのだろう?
"語れない"ということで思い出すのは、つい先日、知り合いの仏師から聞いた話。
「切られて供えられた花の様に、命の期限があらわになったとしても、それは生きていて、老いようが、駄目になろうが、どんな状態であったとしても、それはそれとして生きているということ。」
生きることを言葉で表現し尽くすことは不可能である。ただ各々が、生きている。ただそれだけなのだ。
(周りを見れば、人のすることは酷い事ばかりで、悪性ばかりが見えてしまう。心の動揺も打算ばかりで、貪瞋痴は無尽蔵に溢れ出る。それらを捉えたその心もまた自分の中にあり、酷いものは酷いものの中に含まれる。
真の安らかさと、喜びに満ちた時は一瞬であり、他者と関わろうとすればするほど、安楽地帯から遠ざかるのである。
その中で、何を語ろうとも無力に感じ、言葉の危うさに恐れ、言葉は出て来ず。)
結局、何か問題を打ち砕く様な、決定的な言葉というのは、何の関係も無いところから生じてくるものだ。意図的に言葉で何かを構築しようとして作れるわけではない。
言葉とは、何かを構成するための部品になれるものではなく、他者との認識の"つなぎ"でしか存在していないのだ。
また、言葉は副次的なものであり、現存するもの=言葉ではない。つまり、私を構成するものも、言葉では表せず。またこの先築き上げようとするものも、言葉ではない。
人の生命を、その活動を、表現し尽くせないのなら、それを言葉で言い表そうとした心の働きから出たチリのような、言葉に成り得なかった言葉の水子が、その者の内側か、もしくは、見ることのできない領域のどこかで、埃のように浮遊している気がしてくる。
あるいは何かに反応して、相対する者に投げかけようとした言葉が、互いに見つめ合う網膜と網膜の間のどこかで、うようよと漂っている……。
(画像:小貫政之助《鳥と女》部分)