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私と建築

私の大学生活における建築体験は、まさにアカデミック!というかんじ。
意匠設計に重心を置いた学部だったから、鋭く優秀な学生はこぞって設計や計画のゼミを目指していた。意欲的に知識を貪り、自分の作品に反映させることで学び、常にひとつ突出した何かを生み出そうとする人たちが輪の中心を賑わせている。
しかし、これが私には全く合わなかったところが問題。
私自身は、それまで建築以外の選択肢など想像もしなかった。
休みの日には建築を見て回る両親、一人っ子由来の自信と自己愛、三代目を継ぐのだという使命感。
全てが私を建築に誘っていたし、ありがたいことに進学をためらうこともなかった。
しかし、一回生の終わり、初めての設計課題で、なにひとつ面白くないものが出来上がって、ぞっとした。
向いてないな?
面白くないな?
気付くことができたはずだけれど、そういう自分への迷いに蓋をした。
今回が良くなかったんだな。
この「今回」が、このあと1年に渡り続く。
どうやって努力すれば周りより面白いものが作れるのか、今から考えたら勉強も経験も足りないだけなんだけれど、私には分からなかった。
だいたい自分には甘いほうなので、嫌なことからは逃げる。
そこで出会ったのが「イベント企画」それと「博物館学」。
結局、私は建築をやめ、アートイベントについての論文を書いて卒業する。
生まれて初めて7万字も文字を書いた。すごくすごく楽しい執筆期間だった。あれは胸を張ってよいと思う。けれど、「逃げて志を失って、楽しいことだけしてきた」と負い目を感じていたから、就職活動はうまくいかなかった。
実家に就職し、また建築と過ごすことが決まったときは、本当に叫び出したいくらい嫌だった。
嫌なら頑張ればよかったんだけど、あれはもう、そういう時期だったのよと思ってる。
ところがどっこい、いざ働いてみると、面白いことが起きる。
大体、素人学生レベル…それも2回生レベルなので図面ひとつ描くにも、なんなら線一本引くにも、知識が足りない。
仕事をこなすために、他の物件の図面を漁り、資料集をめくり、毎日の仕事が勉強だらけになった。
わかることが増えると、描けるものが増える。
初めて担当した実施図を、おじさんたちが額を付き合わせて確認し、建物の形になっていくのを経験した。
初めて、私の建築がアカデミックでなくなって、すごいワクワクした。
そもそも、イベント企画が面白かったのは、自分が立てたストーリーに沿って人や物が動くことが面白かったから。
指揮者のポジションが好き。
博物館学も、どのように見られるか、どのように見せるか、細やかな差配で受け手を左右することに面白さがあると思っている。
壮大で美しく常に先を走り続ける手に負えないもの、という認識は建築のたったひとつの側面に過ぎず、愉快で金のかかるイベントディレクションともなりえるということに、2年越し、3年越しでようやっと気付いて、「なんだ〜??こんなこと誰も教えてくれなかったぞ!」って思った。
でもきっと、自分で経験したからわかるんだと思う。
建築はおもしろい。
アカデミックだけど、ぜんぜんアカデミックじゃない。
意匠設計が全てのような認識の中にいるとき、このことを知ることができていれたら何か違ったのかなと、思わなくもない。
けれどやはり、私にとっては、そういう一連があってこそのことだろうと思う。
私と建築。

※本稿は2017年のtumblr投稿から転載した記事のため現在の思想・主張と異なる場合があります

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