白文鳥はいつ誕生したのか?
はじめに
ブンチョウ(Padda oryzivora)は、江戸時代にオランダ船によってジャワ島から日本に渡来し、それ以来ペットとして今日まで飼育されてきた。[01]
江戸時代に飼われていた文鳥は、野生の文鳥やそれと同じ色をした文鳥(ノーマル文鳥)であったとされる。一方、明治以降に主に飼われたのは、白い差し毛の混じった桜文鳥と純白の白文鳥であり、これらが日本における文鳥の品種の主流となってきた。とくに白文鳥は、誰をも一目で惹きつける美しさのため、人気が高い。日本で多数の文鳥が飼われているのは、白文鳥の存在によるところが大きい。
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では、桜文鳥と白文鳥は、いつ誕生したのか? それを明らかにした研究は、これまでのところない。そこで、この記事では、史料に基づいて、桜文鳥と白文鳥の誕生が江戸時代に遡ることを示し、白文鳥が江戸時代からイギリスに輸出されていたことを示す。さらに、桜文鳥と白文鳥の誕生の年代を推定する。[02]
[01]この記事では飼鳥としてのブンチョウについて述べるので、以降は「文鳥」と表記する。
[02]この記事の結論は、「白文鳥は明治時代に現在の愛知県弥富市で誕生した」という通説に反するものである。弥富市における文鳥生産の歴史については、別の記事で、改めて詳しく述べたい。
第一章 白文鳥の誕生をめぐる諸説
【現在の通説:愛知県弥富市での白文鳥誕生】
白文鳥はいつ誕生したのか? この疑問に対して、多くの書籍や雑誌・新聞記事などは、「明治時代に現在の愛知県弥富市で誕生した」という説を紹介している。
弥富の文鳥飼育の始まりは、江戸時代の終わりに弥富の又八地区に嫁入りしてきた八重という女性が、それまで奉公していた名古屋の武家屋敷から桜文鳥をもらってきたことといわれています。それ以来、弥富では農家の副業として文鳥飼育が続けられてきました。明治時代には全身が真っ白な白文鳥(はくぶんちょう)が生まれ、全国に広まりました。
1865年(元治2)尾張藩の武家屋敷に働きに出ていた「八重女」という人が,弥富の又八地区の大島新四郎方に嫁入りしたとき,日ごろ世話をしていた桜文鳥を土産にもらって持参したのが,弥富で文鳥飼育を始めた由来である。以来,又八地区を中心に文鳥飼育が農家の副業として盛んになり,明治9年初めに突然変異により,「白文鳥」が誕生し,これを飼育改良した結果現在に至っている。弥富は日本で唯一の白文鳥の特産地である。
これが、現在のところ、白文鳥の起源について、主流となっている説明である。ただし、1960年代以降に広まった説であり、史料による根拠はない。
[03]弥富市.”弥富の文鳥について”
https://www.city.yatomi.lg.jp/shisei/kanko/1003974.html(参照2024-10-03)
[04]愛知県総合教育センター.”白文鳥”
https://apec.aichi-c.ed.jp/kyouka/shakai/kyouzai/2018/syakai/owari/owa220.htm(参照2024-10-03)
【大正時代の説:石井時彦の『文鳥と十姉妹』】
※以下、和暦と西暦を併記するが、和暦と西暦で年の始まりが一致せず、また年の途中での改元もあるので、目安に過ぎない。1年程度の誤差がある。
明治期、大正期の書籍には、「江戸時代に桜文鳥を品種改良することで白文鳥ができた」という説明が見られる。石井時彦は、1926年(大正15年)刊の『文鳥と十姉妹』において、次のように説明する。[05]
体の一部に白い刺し毛のある鳥から種を引きまして、代を重ねてだんだんと、白色の多い鳥を選抜して、遂に今日見るやうな全身白色で覆われた白文鳥を拵え上げたといふことです。年代は良く分かりませんが、名古屋でできたといふことで、其の拵へた人といふのは、名古屋の住人でもありまして海阜某とかいふ人だと、私幼少の頃から名古屋で大の仲よしだった鳥屋のお爺さんからききました。年代は何時の頃か知りませんし、此のお爺さんの云ふ所も合っているかどうかも判断はつきません。
「幼少の頃」とは、いつだろうか。著者の石井時彦は名古屋で育ち、本書の肩書によると農学士である。同名の人物が、大正三年(1914年)に愛知一中を五年生で卒業し[06]、第八高校[07]、東京大学に進学して[08]、農学士として卒業している[09]。この人物であるとすると、著者が生まれたのは明治三十一年(1897年)頃であり、鳥屋のお爺さんから話を聞いたのは、それ以降になる。[10]
つづきを読もう。
併し最近是もまたやはり名古屋の人ですが、青木という古老からききました所によると、八十年前には既に白文鳥が居たといふことです。
出版された時点から八十年前は、1846年(弘化三年)である。「青木という古老」は、「六十年許(ばか)り前に手飼いの鳥から」[11]とあるので、1866年(慶応元年)頃から鳥を飼っていたことが分かる。
[05]石井時彦.文鳥と十姉妹,文化生活研究会,1926,p.16-17
[06]鈴木彦次郎, 波多野市郎, 江口真一 編纂.”愛知一中柔道部名簿一覧”.部史愛知一中柔道部回想.愛知一中柔道会, 1963, p.6
[07]第八高等学校 編. 第八高等学校一覧 第14年度, 第八高等学校, 1912-1926,p.243
[08]東京帝国大学 編. ”学生生徒氏名”.東京帝国大学一覧 從大正9年 至大正10年, 東京帝国大学,1921, p.61
[09]東京帝国大学 編.東京帝国大学卒業生氏名録,東京帝国大学,1926,p.319
[10]「海阜某」については不明。名古屋コーチンを作った海部正秀との混同の可能性がある。
[11]石井時彦.文鳥と十姉妹.文化生活研究会,1926,p.72
【明治時代の説:川口清五郎の『諸鳥飼養全書』】
明治三十六年(1903年)、つまり石井時彦が幼少の頃に出版された、川口清五郎の『諸鳥飼養全書』は白文鳥について、次のように述べている。
最初薄黒色の分に白の挿し毛の分が出来しは、今より百年前の事であるが、それより間種に間種と、白の挿毛の多い分と、漸々交尾せしめて、白の方を多くし数十年の歳月をかけて遂に純白のものを出すに至ったわけで、この間の丹精は容易のものではなかったでありましょうが、今日はまず純然たる白の一種類をなすに至ったのであります。
「今より百年前」は1803年であるから、享和三年、徳川家斉の時代になる。川口清五郎は、戊辰戦争前後あるいは明治初年から、江戸時代にから続く飼鳥商の横浜における店舗で、飼鳥の輸出に携わっていた。また同じく江戸時代から続く飼鳥商との付き合いもあった。[13]川口の生年は不明で、大正六年(1917年)以前に死去している。[14]
[12]川口清五郎. 諸鳥飼養全書,東京,博文館[ほか],1903,p.37
[13]和田綱紀 (揖南漁人) 編. 日本愛鳥家談話録 第1集, 和田綱紀, 1907, p.31-35
[14]平山美佐男 著. 鶉を家庭へ, 暁声社出版部, 1917,p.201-213
石井、川口の著書に共通するのは、江戸時代に白い差し毛のある文鳥が生まれ、その中から純白の文鳥が生まれた、という点である。そこで、江戸時代に白い差し毛のある文鳥や、純白の文鳥は存在したのか、その記録を探してみることにする。
第二章 弘化年間の変異種
【言葉の定義】
桜文鳥という呼称は、おそらく大正時代にできた呼び方であり、明治期までは様々な呼び方をされていた。たとえば「替毛文鳥」という呼び方はその一つであるが、その言葉が桜文鳥を指すのか、白文鳥を指すのか、それ以外なのかは明瞭でない。そこで、野生の文鳥やそれと同じ外見の文鳥を「ノーマル文鳥」と呼び、ノーマル以外の文鳥、つまり白文鳥や桜文鳥などをまとめて「変異種」と呼ぶことにする。
江戸時代に文鳥の変異種に言及した史料を見ていこう。興味深いことに、それらは江戸時代後期の弘化年間(1845-1848)に集中している。
※これ以降、文献を引用する際に、古文は現代語に改め、英文は日本語に改めた。
【山本亡羊による記録】
一つ目は、山本亡羊(1778-1859)の『百品考』の中での言及である。山本亡羊は京都の医者、儒学者、本草学者であった。自宅で本草漢学塾である山本読書室を営み、千数百人の門人を有した。山本亡羊は動・植・鉱物の形態・性質・用途等を記述した事典『百品考』の「文鳥」の項で次のようにのべている。
近年世の中の人が好んで繁殖させるので、京都市中を飛行する文鳥もいるほどだ。今年弘化三年四月一日に、オスの文鳥が家の庭に来た。子供が黍を籠の中に居れて庭に置くと、ほどなくして籠に入って黍を食べた。それで家に飼うこと一月あまり経った頃、今度はメスが籠の上に来て求めあっていた。数人の者が近くに寄ったが、逃げていこうとしないので、とうとう二羽とも家で飼った。
(中略)
その他、種々色変わりがあるがかえって鑑賞するには美しくない
と「其他種種色変り」の存在を述べている。
[15]山本亡羊 著ほか. 百品考, 科学書院, 1983,p283-285
【吉田雀巣庵による記録】
次は、吉田雀巣庵(1805-1859)の『雀巣庵禽譜』おける言及だ。吉田雀巣庵は尾張藩士であり、名古屋の本草学の結社「嘗百社」の一員として活動した。雀巣庵が様々な鳥の絵を描いた『雀巣庵禽譜』が東京大学の田中芳男・博物学コレクションの中にあり、その中には文鳥の絵が含まれる。描かれた文鳥はノーマル文鳥であるが、そこに次のようなコメントが付いている。
カキという一種がある。アゴシロという一種がある。これは、弘化二年に人気となって、あちこちで飼われ流行である。値段は高い。後には、あごが黒いものをタブンという。アゴシロは備前から来た
アゴシロはあごに白い刺し毛の入った文鳥だろう。カキは柿色の文鳥、タブンは駄文(ノーマル文鳥)の意味だろうか。「備前から来た」というのは、水戸藩士佐藤成裕(1762-1848)が文政四年(1821年)頃書いた『飼飼鳥』に「近年は備前の佐藤九郎治なる者が巧みな者であって、数百羽を籠に入れて大阪や江戸に出している」[17]と書いているが、この弘化年間にも、文鳥の繁殖が盛んだったのだろう。
[16]吉田雀巣庵.雀巣庵禽譜,東京大学総合図書館所蔵,請求記号:A00:5844
https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/assets/b317c66e-9ca0-8325-9719-27ffecd40aee?pos=52 (参照 2024-10-05)
[17]滕成裕 撰『飼籠鳥 20巻』[3],天保5 [1834] 写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2554943/1/71 (参照 2024-10-05)
【大久保忠保についての記録】
弘化二年、ある大名または旗本が、老中阿部正弘(1819-1857)に風説書を提出した。江戸市中などにおいて、人々が贅沢にふける様子を報告したものである。阿部正弘は、この風説書を、書いた者の名前が分からないよう、名前の部分を切り取って江戸町奉行に示し、対応を求めた。[18]求められた奉行は、遠山左衛門尉景元、いわゆる遠山の金さんである。風説書には、祭りの様子や料理屋についての項目と並んで、飼鳥についての項目があり、文鳥の変異種について記載がある。
小鳥類、小鴨、鴛鴦、文鳥、山雀、目白などの毛色が変わったものを、『替りもの』と言って、一両二分くらいから二十五両くらいまでで売買をしている。大久保佐渡守忠保は大阪加番の際に、替毛文鳥一つがいを五十両にて買い入れて持ち帰って来たという。表向きは高値の鳥も、鳥屋仲間の取引ではそうではないはずだ。このような小鳥を高値で売ったときには、その鳥の元の持ち主や仲間に手数料を支払っていると聞いている。
文中の大久保忠保(1791-1848)は、下野烏山藩三万石の藩主である。忠保は、天保十四年(1843年)から天保十五年(1844年)まで大阪加番(大阪城の警備)として、家臣を連れて大阪で勤務をしていた[20]ので、文鳥の変異種を購入したのは、この時のことと思われる。五十両というのは今の価値でいえば数百万円位だろうか、かなりの高額だ。
[18]風説書と老中の指示は、天保の改革における風紀取締りや物価統制の影響を受けたものである。時代背景については、次を読まれたい。藤田覚.遠山景元,山川出版社,2009
[19]東京大学史料編纂所 編纂. 大日本近世史料 [6] 22 (市中取締類集 22 御参詣調之部・立商人并荷車日傘之部・鳥類鉢植之部・町人衣服之部・高価翫物之部・雛菖蒲刀之部), 東京大学, 1996,p106
[20]大阪府立中之島図書館.”大坂城代・定番・町奉行・加番一覧”
https://www.library.pref.osaka.jp/uploaded/attachment/6230.pdf (参照2024-10-06)
【江戸町奉行による目録】
阿部の指示を受けて、町奉行は、弘化二年(1945年)九月十三日、町名主たちに対して、飼い鳥のリストを示し、自分の担当する地区(番組)の鳥屋から鳥の値段書を提出するよう申し渡した。そのリストの中に、「文鳥、同替り」とあるので、当時の鳥屋で替り文鳥つまり文鳥の変異種が売られていたことが分かる。[21][22][23][24]
このリストは、およそ100種ほどの鳥を掲載しているが、多くの鳥について、変異種を独立した項目として載せている。例えば、最初の方は次のようになる。「一ほふ白、一同斑替り、一青じ、一同斑替り、一のじこ、一同斑かわり」これは、後述するように、飼鳥商は、変異種の在庫カタログを作成していたため、それを利用したのだと思われる。
[21]東京大学史料編纂所 編纂. 大日本近世史料 [6] 22 (前掲書).p122
[22]東京都 編纂. 東京市史稿 : 産業篇 第57, 東京都, 2016.p5
[23]近世史料研究会 編. 江戸町触集成 第15巻, 塙書房, 2001.3.p169
[24]残念ながら、提出された鳥の値段は、ほとんど残っていない。
【武家のあいだでの飼鳥の流行】
翌弘化三年(1846年)三月二十一日に、町奉行は小鳥を不当な高値で売買することを禁じた。[25]しかし、これはあくまでも町民を対象にしたものである。遠山は、町民相手の禁令にあまり乗り気ではなかったようだ。老中に対しては、「(高価な飼鳥の類は)多くの場合、高貴な人物の好みに任せて買い上げるため、自然と高値になるというべきか」[26]と意見を述べている。実際、高額な飼鳥を購入するのは、武家であり、大名であり、その頂点に立つ将軍家であった。
杉田玄白(1733-1817)は文化四年(1808年)にあらわした『野叟独語』の中で、「今の侍たちは、武士としての役目が勤まるものは、ほとんどいなくなってしまった。……小普請の輩は……唐鳥(外国から持ち込まれた飼鳥)や植木を愛して、中には商いをするものもいるありさまだ。」という内容のことを言っている。[27]
また、徳川家慶(1793-1853)の小姓だった竹本要斎(1831-1899)は、明治になってからのインタビューにおいて、将軍の飼鳥、とくに変異種好きを、批判的に紹介している。(しかし面白いことに、竹本自身、白文鳥を飼っていたのである。このことは後述する。)
たいがい高貴の人は、飼鳥も好きだ、植木も好きだいうのが多いようですが、そういうのは多く側では困るのです。好きな人は植物でも動物でも御側に美麗な物を御置きになりますが恒です……
慎徳院様(徳川家慶)も少しは御好きがあって、斑[引用注:白いまだら]のある繍眼児とか、白い鶸とかいうものを寵愛なさったり、雪白鴛鴦というのがあって、殊に鄭重のものになっておりました。これは有徳院様(徳川吉宗)に始まったのです。あれほどの明君ですら雪白鴛鴦を鄭重にしたのは一つの失錯という後世の評言もありました位で……
[25]東京都 編纂. 東京市史稿 : 産業篇 第57, 東京都, 2016,p.98-99
[26]東京大学史料編纂所 編纂. 大日本近世史料 [6] 22 (前掲書),p.127
[27]大槻磐水 著ほか. 蘭説弁惑 : 校訂 蘭学事始・野叟独語 : 校訂 長崎夜話草 : 校訂, 雄山閣, 1939, (雄山閣文庫 ; 第1部 第41), p53
[28]旧事諮問会 編ほか. 旧事諮問録 : 江戸幕府役人の証言 下, 岩波書店,岩波文庫, 1986.2, p.43
【江戸城内の記録:『御慰言贈帳』】
竹本要斎は徳川家慶の鳥好きについて述べたが、家慶が将軍だった時に、文鳥やその他の変異種を購入したことは、当時の記録にもある。国立公文書館にある『御慰言贈帳』という文書がそれだ。これは、多聞櫓文書(幕末期の江戸幕府文書)に含まれる奥坊主御小道具役の業務日誌の一つであり、「江戸城の奥や大奥で鑑賞されたさまざまな鳥と魚、植物、そして将軍や三家・三卿の子女に対する進上品、各種調度品に関する事柄」が記述されている。[29]
国立公文書館には、天保九年(1838年)から文久三年(1863年)までに作成されたものが残っているが、そのうち弘化四年分については、翻刻されている。[30]その中に、「替り文鳥」を購入した記録があるので、関係する部分のみを拾ってみたい。
正月九日、平作から替り文鳥を今日早々に持ってくるように、信濃守殿の指示。平作に申し遣わした。平作が持ってきた文鳥のメス二羽は、買い上げることになった。
正月十二日、替文鳥の代金二両二分を、鳥を見た後、伊豆守殿が円佐へ渡した。
正月二十日、先日平作が持ってきた替文鳥二羽の代金二両二分について甲斐守殿に伝えた。
文鳥二羽で二両二分というのは、これより数年先だって大久保忠保が一つがいを五十両で買ったのと比べると、格安である。この数年間で繁殖され、数が増えていたと推測できる。
『御慰言贈帳』には、文鳥の他にも多くの替り鳥(変異種)を買い取った記録が残っている。替り鶯、替り鶉、替り小鴨、替り巴鴨、替り山雀、替り尾長鴨、替羽白鴨、替り鳥(目白/よし切)、替り鴨、替りこま、だんどく(替)、替四十雀、替山鳥、替小鳥。
また、二月二十二日には、「替鳥の伺いが越前屋から提出された。ご一覧ください」とあるように、飼鳥商が変異種のカタログを作っていたことが分かる。
[29]氏家幹人.「弘化四年『御慰言贈帳』について」.北の丸 : 国立公文書館報 (50), 国立公文書館, 2018-03.
[30]弘化四未年御慰言贈帳
https://www.archives.go.jp/publication/kita/pdf/onagusami_zenbun.pdf (参照2024-10-12)
第三章 描かれた桜文鳥と白文鳥
【江戸城で飼われた鳥の絵:「鳩小禽等図」】
東京国立博物館に「鳩小禽等図」という、幕末に描かれた一連の図譜がある。菅原浩・柿澤亮三はこの図譜を、次のように説明している。
「十一代将軍家斉、十二代家慶の時代に江戸城で飼われていた鳩と小禽を、将軍、大御所から拝領した人がつくったもののようである。全体で二九四枚の絵がふくまれるが、そのうちの半数の鳩の絵の大部分はドバトの模様の珍しいもので他にクジャクバトの変り(変異種)が僅かにふくまれている。残りの半数の小禽の中には小型の飼鳥の変り(ウズラの変り、ヤマガラの変り等)が多いが、外国渡来の飼鳥(ハッカチョウ、カナリア等)もかなりあり、家禽の模様の変ったものも少しある。」[31]
この「鳩小禽等図」の中に、「替文鳥」の図が二枚ある。一枚(図1・整理番号272)は一羽の替文鳥を左右から描いたもので、桜文鳥の姿をしている。もう一枚(図2・整理番号273)は「替文鳥」の雄と雌を描いたものだが、ノーマル文鳥とほとんど変わりがないように見える。雄の背と雌の尾に小さな白点があるのが、「替」とされた理由だろうか。
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「武州」は武蔵国の産であることを示している。おそらく江戸の鳥商から購入したということだろう。図2で指先が描かれていないのは、止まり木に止まった状態で描いたため、指先が隠れていたからである。
[31]菅原 浩ほか. 東京国立博物館保管の「鳩小禽等図」について. Museum / 東京国立博物館 編. (通号 478) 1991.01.p.14-24.
[32]https://webarchives.tnm.jp/infolib/meta_pub/G0000002070723ZF_18189(参照2024-10-12)
[33]https://webarchives.tnm.jp/infolib/meta_pub/G0000002070723ZF_18190(参照2024-10-12)
【大英博物館にある白文鳥の絵】
実は、大英博物館にも、この「鳩小禽等図」と元は一体だったと思われる一連の図譜「鳥類写生図目録」(Various Birds)がある。[34]この中に、最古の白文鳥の絵があるのである。
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背中の灰色の羽は、日本で飼われて来た、そして現在も飼われている白文鳥の雛の特徴をはっきりと示している。説明は何もない。描かれたのは何時だろうか。「鳩小禽等図」「鳥類写生図目録」には、天保7年から弘化2年までの「拝領」の日が記入された絵が含まれる。しかし、この白文鳥の絵が描かれたのがいつなのかは不明である。言えるのは、江戸城内で白文鳥が飼われていたということである。
[34]加藤 弘子. 「鳩小禽等図」(東京国立博物館所蔵)の在外作品について--「鳥類写生図」(大英博物館所蔵)を中心に. Museum / 東京国立博物館 編. (619) 2009.4,p.29-50,2-4.
[35]Museum number1881,1210,0.2520
https://www.britishmuseum.org/collection/object/A_1881-1210-0-2520(参照2024-10-12)
第四章 イギリスに渡った白文鳥
【日本の開国とカナリアの輸出】
嘉永六年(1853)にペリー率いる黒船が来航し、嘉永七年(1854年)の日米和親条約によって長きにわたって続いた鎖国政策が終わった。安政五年(1858年)には日米修好通商条約が結ばれ、安政六年(1859年)には横浜が開港した。開港時から、横浜には鳥屋が二軒あった。[36]
この横浜の鳥屋あるいは江戸市中の鳥屋から、多くの鳥が外国人によって買われ、海外に運ばれた。イギリスの水兵が幕末の日本でカナリアを買い込む様子を、イギリスの博物学者であり医師であったカスバート・コリングウッド(1826-1908)が、記録している。
カナリアも(中国の)鳥屋に多くいる。しかし、カナリアの楽園は日本のようだ。帰路につくスキュラ号は、禽舎のようだった。ある晴れた午後に、デッキには数えて50か60のカゴがあった。だいたい二羽以上で、七、八羽入ったカゴもいくつかあり、みんな歌っていた。魅力的なことに、日本では良くさえずるカナリアが、一羽当たり一分銀、つまりおよそ1シリング6ペンスで買える。だから、水兵たちはそのチャンスを逃さなかったのだ。
コリングウッドは1866年(慶応二年)から1867年(慶応三年)にかけて、イギリスの軍艦に同乗し、中国大陸、台湾、東南アジアをめぐって生物学の調査をした。帰りは、香港から、イギリス船のスキュラ号(The Scylla)で帰国したので、おそらくこの時の見聞と思われる。[38]
よく知られているように、日本の生物をヨーロッパに持ち帰ったのは、ドイツの医師であり博物学者であったシーボルトや、イギリスの植物学者・プラントハンターのロバート・フォーチュンのような、生物に対する関心と知識をもった人々であった。しかし、その他にも、お土産ないしは利益を目的として、日本の鳥を海外に連れて行った外国人もいた。そうやって、日本で購入されてイギリスに連れていかれた鳥たちの中に、白文鳥もいたのである。
[36]横浜市史 第2巻, 横浜市, 1959, p.214
[37]Cuthbert Collingwood.Rambles of a naturalist on the shores and waters of the China Sea : being observations in natural history during a voyage to China, Formosa, Borneo, Singapore, etc., made in Her Majesty's vessels in 1866 and 1867London,John Murray,1868,p.321
[38]Cuthbert Collingwood.同上,p.410
【台湾での白文鳥の記録】
台湾に滞在中の外交官で博物学者でもあったロバート・スウィンホー(1836-1877)は、1865年(慶応元年)2月27日付で、イギリスの鳥類学誌「THE IBIS」に日本の白文鳥の存在を報告した。年代が明確なものとしては、これが今のところ最も古い白文鳥の記録である。
以前、コシジロキンパラが日本で家禽化され、さまざまなアルビニズム(白化)とメラニズム(黒化)が起きている事実を、報告した。しかし、この鳥が日本で野生の状態で見られるのかは、まだ分からない。それ以降、私は、日本からの家禽化したブンチョウも見てきた。これらの鳥は、日本にはほとんど生息せず、オランダ人によってジャワから日本に運ばれたにちがいない。この家禽化された種では、さまざまなアルビニズムが起きたが、メラニズムの傾向はまったく見ていない。家禽化は部分的なものかもしれない。ブンチョウはコシジロキンパラのように、飼育下で自由に繁殖している。
[39]Swinhoe, Robert:"Letters, Extracts from Correspondece, Notices, &c.",the Ibis,vol.I.British Ornithologists' Union,1865,p348
【イギリスで展示された白文鳥】
1866年5月22日発行のイギリスの科学雑誌に、白文鳥の記録がある。
1866年3月28日
日本スズメと呼ばれる、ほとんど純白のフィンチが、展覧会のために近頃わが国に運ばれてきた。よく知られた文鳥にとても似ていて、実際、白色あるいはおそらくはアルビノの文鳥と思われた。
「近頃」というのがどのくらいか分からないが、記載誌の前の号は、同年2月28日の発行であるから、数ヶ月前という程度か。
1868年2月20日発行の園芸雑誌には、バードショーで白文鳥が展示された記録もある。
クリスタル・パレスで毎年恒例のカナリア・その他の鳥の展覧会が、うれしいことに先週土曜に開幕し、金曜日までの予定です。……海外の鳥は、今年は好調ではありません。美しいオウムとインコがいます。それから、ホーキンス氏の純白の文鳥のペアも注目を集めてます。
このときに出品された白文鳥は、話題となったらしく、複数の書物に記録がのこっている。
一八六八年、ロンドンのクリスタル・パレスの展覧会で、ホーキンス氏によって、一つがいの文鳥が展示された。一羽は全身が白く、もう一羽は喉と頭が黒く嘴の赤い、灰色の柔らかで滑らかな羽をもった文鳥だった。それは非常に美しい鳥だったときいた。メスは四つの卵を産んだ。その文鳥は日本から初めて来たと信じている。そのとき以来、多くの純白文鳥が展示されている。
[40]Jhon Alex Smith:"Ornithological Notes",Proceedings of the Royal Physical Society of Edinburgh,Edinburgh(3),Neill and Company(1867),p393
[41]"Crystal palace bird show" THE JOURNAL OF HORTICULTURE, COTTAHE GARDENER, COUNTRY GENTLEMAN, BEE-KEEPER AND POULTRY CHRONICLE,1868,p160
[42]Dyson, C.E. (1878). Bird-Keeping. A Practical Guide for the Management of Singing and Cage Birds.London
【イギリス人が見た江戸の白文鳥】
また、ジェドニーという人物は、江戸に来て、白文鳥の生産現場を見ている。
カナリアを除けば、文鳥ほど飼育下で羽毛に著しい変化をした鳥はいない。それは文鳥が、白い羽となったり、あるいは汚い白と灰色のまだら模様になったりする事から分かる。日本人は、熱心な博物学者であり、偉大な鳥愛好家だ。
私がはじめて大きな巣引き場を見たのは江戸だった。そこでは白文鳥の大規模な生産がおこなわれていた。かなりの割合で、染みのある鳥が生まれていた。それらは白文鳥よりずっと安く売られた。
これらの鳥は二重の籠で飼われていた。白く塗られた細い竹ひごと同じく白い器具の全体が、白いキャラコで覆われ、鳥は周囲の白以外には何も見えない。これが生まれる子にはっきり影響するのだという。
私はこの理論を肯定も否定もしない。経験的には、これらの白い鳥は野生の色の鳥より容易に繁殖するが、しかし、白い鳥がその色の子を産むことは少ない。
ここまでの記録から、江戸時代に白文鳥が誕生したことは、間違いない。
[43]C.W.Gedney: "foreign cage birds"(1879)
第五章 久永章武が語る白文鳥の誕生
【白文鳥の誕生】
明治二十六年(1893年)に、元旗本の久永章武(?-1918)が、「ぶんてうの歴史」という、幕末の白文鳥についての興味深い記事を書いている。[44]久永氏は石高4000石、三河に領地を持つ旗本で、章武は慶応四年(1868)に家督を継いだ。[45]
天保年間(1831-1844)に名古屋で頭部に白い毛が混じった文鳥が生まれ、換羽のたびに背中、胸部にも白い羽が生えて、だんだん全身が純白に変わっていく徴候を示した。そのため、この地方は好鳥家が多い土地なので、この変種を買い入れたいと熱望する者が一度に押し寄せ、甲は十両、乙は二十両、丙は三十両と争って、譲ってほしいと求め、ついには五十両という高値で某氏が買い求め、秘術を尽くしてたくさん繁殖し、江戸はいうに及ばず、京都、大阪地方へも輸出して、大いに利益を得た。これが我が国の白文鳥の始めである、と名古屋の人である大原楽氏(文鳥繁殖専門家)の談話を聞いたことがある。
この部分は伝聞であり、大原楽とはどのような人物であるのか、久永章武がいつ談話を聞いたのかは分からない。ただ、大久保佐渡守忠保が、天保十四年から天保十五年にかけて、五十両で文鳥の変異種を一つがいを購入した、という記録と矛盾はしていない。続きを読もう。
江戸では、弓削田氏も大いに文鳥を愛養し、白文鳥をもっぱら繁殖させたことは、飼鳥商の富五郎(小石川掃除町に住居)が親しく見た。また、数十羽を買い受けあちこちに売り込んだと語った。
久永によれば、弓削田氏は「飯田町にいた」とある。[46]当時の地図[47]によれば、「弓削田氏」は、幕臣の弓気多楠太郎であると思われる。弓気多楠太郎は嘉永三年の時点で、小普請組松平美作守支配であった。[48]杉田玄白が『野叟独語』で批判したそのままの姿で面白い。
「富五郎」は、田辺富五郎。久永によれば、文化六年(1809)頃の生まれで、[49]江戸時代からの飼鳥商であり、(おそらく明治になってからは)店舗を持たず得意先の注文に応じて売買をしている。久永とは、1902年の時点で、30年以上の付き合いだという。[50]
[44]久永章武.ぶんてうの歴史.東京家禽雑誌 (40), 東京家禽雑誌社, 1893-10
[45]西尾市史編纂委員会 編. 西尾市史 3 (近世 下), 西尾市, 1976, p.286-287
[46]久永章武.瑞紅鳥(続).風俗画報 (176), 東陽堂, 1898-11
[47]景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編. 〔江戸切絵図〕 駿河台小川町絵図, 尾張屋清七, 嘉永二-文久二(1849-1962)刊
https://dl.ndl.go.jp/pid/1286659(参照2024-10-14)
[48]東京都「東京市史稿 市街編42」東京:東京都,p.1011
[49]久永章武.瑞紅鳥(続).風俗画報 (176), 東陽堂, 1898-11
[50]久永章武.「江戸市中飼鳥屋の概況」『風俗画報』(252)、東京:東陽堂,1902-06
【白文鳥を求めて】
記事の続きを読もう。
嘉永年間(1848-1855)に、奇談が一つある。神田小川町に住んでいた蒔田氏は珍鳥を愛して数多く飼養し、まるで鳥屋のようであった。それにもかかかわらず白文鳥がいないのは欠点であるとして、鳥商に注文したところ、その頃は愛好者が多く、雪白ともいうべき品は大変にまれであったため、購入の望みをかなえることは出来なかった。ところがある日大久保某の邸宅に行って、話がたまたま飼鳥のことになった。当時大久保氏はさすが好鳥家だけあって、すでに雪のような純白の白文鳥一つがいを愛養していた。蒔田氏は一目見るなり、購入したいという思いがよみがえって、直接売ってくれと頼み込んだ。しかし、承諾する様子がないので、さらに迫ると、蒔田氏の最愛の丹頂鶴一つがいと交換という事になりやっと話が決着した。そういう訳で、念願をかなえることができ有頂天になり、大喜びで、誇らしげに愛玩したという。その頃は丹頂鶴の一つがいの価格は七十両であったから、つまり白文鳥一つがいを七十両という高値で買い入れたことになる。
大久保某については、不詳。もしかしたら、文鳥の変異種一つがいを五十両で買った大久保佐渡守忠保と関係のある人物かも知れない。
蒔田氏は、当時の地図[51]で探すと、神田橋門外に「蒔田清之助」という名が見つかる。また、弘化三年の昇栄武鑑には、3700石余の旗本として、「蒔田清之助広甫」の記載があるので[52]、この蒔田氏とは、蒔田広甫であると分かる。蒔田広甫は、現在の総社市三須を領地とした、旗本の三須蒔田氏の11代目。広甫は、慶応三年(1867年)に隠居し、広徳に家督を譲り、明治十五年(1882年)に没した。[53][54]
ところで、久永章武が、本草学者水谷豊文の『虫譜』を筆写したものが、東洋文庫にある。[55]その写本の最後に久永が書き加えた文章の中に、「親族蒔田広徳君及荊妻鉚女(広徳君ノ妹也)」とある。つまり、蒔田広徳は久永にとって妻の兄であり、その父の蒔田広甫、つまり記事中の「蒔田氏」は久永の義父だったのである。
嘉永年間の白文鳥について、おそらく、久永は蒔田広甫から直接話を聞いていたのだろう。記事がかかれたのは明治二十六年(1893年)であり、嘉永年間から既に40年ほど経っていることを考えれば、すべてが正確とは言えないだろうが、大筋においては信頼を置くことができると、私は考える。
[51]景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編. 〔江戸切絵図〕 駿河台小川町絵図, 尾張屋清七, 嘉永二-文久二(1849-1962)刊
https://dl.ndl.go.jp/pid/1286659(参照2024-10-14)
[52]渡辺一郎 編. 徳川幕府大名旗本役職武鑑 第3, 柏書房, 1967,p.636
[53]総社市史編さん委員会 編. 総社市史 通史編, 総社市, 1998,p.473
[54]総社市総務部市史編さん事務局 編. 総社市史編纂史料報告書 第2次, 総社市総務部市史編さん事務局, 1981,p.70
[55]久永章武.蟲譜.東洋文庫所蔵,貴重書XV-3-B-c-25
【白文鳥、市中に出回る】
久永の記事は続く。
慶応年間(1865-1868)には、名古屋で繁殖したため、だんだんと価格も低くなっていったが、一つがい三、四両を保っていた。以後、外国への輸出の途が開けたので、ますます専門に繁殖する者が増加したが、輸出が盛んなので利益を得た者も少なくない。
「外国への輸出の途が開けたので」という記述は、台湾とイギリスにおける白文鳥の記録が1865年から始まることと一致している。
今でも名古屋では、春と秋、いや一年中繁殖して全国に売り、専門業者もいる。近年は、東京市街の鳥屋で、並文、白文、ともに籠にたくさんいるので、あえて珍しい鳥とも思わない。しかし。原種の並文も(日本に)舶来して以降、盛衰こそあったが今日まで永く愛され、また白文鳥は前述のように、まさに日本特産の鳥であって、世の中で最も賞揚された鳥であることは疑いない。したがって、その歴史を特に取り上げて、貴社の雑誌に投稿掲載した。
第六章 明治時代の白文鳥
【鳥の展示:物産会・博覧会・名鳥楼】
東京国立博物館の前身である大学南校博物局は、明治四年(1871年)、「物産会」を開催した。中心になったのは、慶応三年(1867)のパリ万博に派遣され、博覧会、博物館、動物園、植物園などをつぶさに見学してきた、田中芳男である。[56]
この物産会に、田中芳男に次いで多くの出品をしたのが、先述の竹本要斎である。竹本は徳川家慶、家定、家茂の小姓を勤めた後、外国奉行などの要職についた。[57]幕府瓦解後は職を辞して、含翠園を起こし陶磁器の生産をしていた。[58]
竹本は物産会に、園芸植物270品、哺乳類2品、鳥36品、魚7品、陶器158品を出品した。その中には、ホオジロの変異種やカワラヒワの変異種とともに、文鳥の変異種が含まれていた。出品目録には、文鳥は「瑞香鳥」[59]の名で記されている。
瑞香鳥 四羽 変生ミノガタと称する者
同 変生白色ノ者
物産会が終わると、出品された品は、皇居吹上御苑に運ばれ天覧に供された。鳥たちの鳴き声が響くなか、明治天皇は出品物の間を歩いて出品された品物を一つ一つ見て回っただろう。もしかしたら、天皇は、展示されていた白い文鳥の前で、足を止めたかもしれない。というのは、物産会より十一年前の万延元年(1860年)に、おそらく、幕府が天皇に文鳥を献上しているのである。
井伊直弼が桜田門外の変で殺害された後、幕府はその威信を維持するために、将軍徳川家茂と孝明天皇の妹である和宮内親王の婚姻を図った。[62]はじめ朝廷はこれに応じなかったが、その交渉のさなか、本田忠民、安藤信睦、内藤信親、久世広周の四名の老中は、京都所司代酒井忠義に対して、皇室に進物を献上するように指示した。献上品のリストには、孝明天皇には「ギヤマン」の食器などとあり、天皇の子である九歳の祐宮(のちの明治天皇)には、「毛植猫、文鳥篭入り、御小箪笥・御手遊入」とある。[63]「毛植猫」とは、江戸時代の後期頃から作り始められ、京都の特産品だった毛植人形の猫[64]であろう。「文鳥篭入り」は、白文鳥だったかもしれない。
明治六年(1874年)に行われた、第二回京都博覧会においても「瑞紅鳥(ブンチャウ)、同毛替り白色」とあるので、白文鳥が出品されていたことが分かる。[65]これ以降、白文鳥は様々な博覧会に出品の記録がある。
また、明治十年に出版された「西京繁昌記」には、京都の「名鳥楼」という店が紹介されている。名鳥楼では、様々な鳥獣を店内で飼育していた。その中に「白文鳥(ハクブンテウ)と呼ぶ者あり」と書かれている。[66]
[56]木下直之「大学南校物産会について」
https://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DPastExh/Publish_db/1997Archaeology/01/10700.html(参照2024-10-13)
[57]旧事諮問会 編ほか. 旧事諮問録 : 江戸幕府役人の証言 下, 岩波書店,岩波文庫, 1986.2, p283
[58]豊島区教育委員会「竹本焼終焉の地」
https://wp.toshima-iseki.org/wp/wp-content/uploads/2016/11/takemoto01.pdf(参照2024-10-13)
[59]文鳥の別名に「瑞紅鳥」がある。菅原浩、柿澤亮三.図説鳥名の由来辞典.柏書房.2005
[60]東京国立博物館百年史, 東京国立博物館, 1973,p.593
[61]東京文化財研究所美術部 編. 明治期府県博覧会出品目録 : 明治四年~九年, 文化財研究所東京文化財研究所, 2004,p.22
[62]幕府と朝廷の交渉については、次が詳しい。武部敏夫. 和宮, 吉川弘文館, 1987, (人物叢書 新装版)
[63]東京大學史料編纂所 編纂. 大日本維新史料 類纂之部井伊家史料 二十八, 東京大学史料編纂所, 2014.p86-89
[64]田中正流.毛植人形・子犬
https://www.kyoto-minpo.net/html/naruhodo-kyoto/ningyou/koinu/index.html(参照2024-10-13)
[65]東京文化財研究所美術部 編. 明治期府県博覧会出品目録 : 明治四年~九年, 文化財研究所東京文化財研究所, 2004,p.213
[66]増山守正 編ほか. 明治新撰西京繁昌記 初編 下, 大谷仁兵衛[ほか], 1978,p.18
【武家の没落と輸出の拡大】
明治初期には、飼鳥の流行はすたれ、白文鳥は、主に輸出用として繁殖されていた。日本人が趣味として文鳥を飼いはじめるのは、明治後半になってからである。久永章武は次のように述べている。[67]
維新後は時々飼養者がいる程度で、飼う人は非常に少なかった。それでも小禽家の寵愛を受けていたが、明治八、九年頃から、白文鳥の外国への輸出の途が開けて、年々外国に出る数は多い。
明治二十年の「農商工公報」は次のように記している。[68]
(東京)府下においての(飼鳥の)需要は維新以前に比べれば、現在、大変減少している。つまり、これらの鳥類はもともと娯楽のために飼養するに過ぎず、昔、諸大名や旧幕府家臣、町屋の富豪などが飼養愛玩することが多かったが、世の中が一変して、今日では好事家の他は、富裕な者でもこれを愛玩する者は少ないことによる。
カナリア、文鳥、十姉妹などは、元来は外国産であるが、今は日本で繁殖するのが普通になっている。現に尾張名古屋に於いてはこれを営業とするものが数千戸という多さである。したがって、府下に入るものは主に同地の産であるという。おそらく、名古屋においては従来からその業を営むものがいたが、このように盛大な営業となったのは、横浜開港以来のことであって、様々な鳥類をシナ方面に輸出するためである。
また、明治十八年の東京横浜毎日新聞には、次の記事がある。[69]
小鳥中カナリヤの欧州諸国に輸出する数は、相応にありて、これに続くはブンチョウなり。カナリヤは白きもの及び黒斑の二種を貴び、ブンチョウは白無地或いは鼠無地(ねずむじ)のごとき換り物を宜しとす。相場はカナリヤ円に二羽より三羽位、ブンチョウは同一羽半より二羽、或いは二羽半くらいの趣きなるが、……
文鳥がいつ誕生したのか、という疑問に対しては、ここまでで十分だろう。明治時代ではなく江戸時代に誕生したのである。
[67]久永章武.瑞紅鳥(続).風俗画報 (176), 東陽堂, 1898-11
[68]農商務省 [編]. 「東京府下小鳥営業の景況」農商工公報 (26), 農商務省, 1887-04
[69]明治ニュース事典編纂委員会, 毎日コミュニケーションズ出版部 編集. 明治ニュース事典 第3巻 (明治16年-明治20年), 毎日コミュニケーションズ, 1984,p.711
第七章 白文鳥の遺伝様式
【白文鳥には二種類ある】
この章では、遺伝様式の点から、白文鳥について考えたい。
文鳥の全身の羽色を白くする遺伝子は二種類ある。一つは顕性の白遺伝子であり、もう一つは潜性の白遺伝子である。愛知県農業総合試験場によれば、1973年から1976年にかけて愛知県弥富町で生産されていた白文鳥は、顕性の遺伝子であった。また、1999年に台湾から輸入された白文鳥は、潜性の遺伝子であった。
顕性白遺伝子は常染色体上にあり、白文鳥はノーマル文鳥に対して顕性であり、致死遺伝子である。潜性白遺伝子は常染色体上にあり、ノーマル文鳥の形質は、白文鳥の形質に対して不完全顕性を示す。[70][71]つまり、以下の性質をもつ。
(A1)顕性白遺伝子の対立遺伝子を、Dwh(白化型)とDwh+(野生型)とすると、
遺伝子型がDwh/Dwhであるときは、卵が孵化せず死ぬ。
遺伝子型がDwh/Dwh+であるときは、全身の羽色が白くなる。(白文鳥になる。)
遺伝子型がDwh+/Dwh+であるときは、羽色を白くする働きはない。(ノーマル文鳥や桜文鳥になる。)
(A2)潜性白遺伝子の対立遺伝子を、rwh(白化型)とrwh+(野生型)とするとすると、
遺伝子型がrwh/rwhであるときは、全身の羽色が白くなる。(白文鳥になる。)
遺伝子型がrwh/rwh+であるときは、全身の羽色がまだら状に(部分的に)白くなる
遺伝子型がrwh+/rwh+であるときは、羽色を白くする働きはない。(ノーマル文鳥や桜文鳥になる。)
このことから顕性白文鳥は交配に関して、潜性白文鳥にはない、次の性質をもつ。
(B1)顕性白文鳥同士を交配すると、白文鳥でない文鳥(ノーマル文鳥や桜文鳥)と白文鳥の両方が生まれる。
また、雛の羽色については、次の特徴がある。
(B2)顕性白文鳥の雛は、全身の白い毛の中に、背中を中心に灰色の毛の部分がある。
(B3)潜性白文鳥の雛は、全身の毛が白い。
[70]広瀬 一雄 他. ブンチョウの羽色の遺伝様式について. 愛知県農業総合試験場研究報告. C, 養鶏. (通号 10) 1978-10,p.56-61
[71]山本 るみ子ほか. 台湾産ブンチョウの羽色の表現型とその活用法. 愛知県農業総合試験場研究報告 (33) 2001-12,p.331-334
【江戸時代に生まれた顕性白遺伝子】
明治初期に輸出された白文鳥が、(B1)の性質をもっていたことが、当時の記録から分かる。記載された書籍の出版年順に、繁殖の記録を見てみよう。
《記録1:1877-1880年》
「しかし、白文鳥どうしのあいだから、しばしば一腹の中に、純白な雛のほかに、斑のある雛、あるいは全く灰色の雛まで現われる」[72]
《記録2:1878年》
「白い文鳥は並文鳥よりも籠の中で容易に繁殖するといわれているが、雛の中には、すっかり先祖に帰ってしまった色や、部分的に灰色とまだらになっているものが出る。」[73]
《記録3:1879年》
(江戸における文鳥の繁殖を述べた後で)「白い鳥がその色の子を産むことは少ない」[74]
《記録4:1895-1896年》
「(筆者バトラーの飼っていた白文鳥のペアは)ついに、1893年、一羽の子どもを育てた。その背面は全体にパールグレーで、下面は白く、觜と脚は肌色だった。最初の換羽で背中の灰色は、すべて消えた。」
この白文鳥はメスで、バトラーはこれを並文鳥とペアにした。1894年2月3日までに5羽の雛が生まれ、3週間後巣立ちした。
「一羽は觜もすべて黒く並文鳥のような色で、二羽はすこし色が薄くて、觜は部分的に黒かった。残り二羽は母親の雛のときに似ていて、灰色と白の羽毛で、ばら色の觜と脚だった。」
「およそ三日後、白文鳥のペアも、一羽の雛に餌を与えているのが聞こえた。三週間後に巣立ちして、羽毛は並文鳥のようだった。」[75]
[72]Blakston, W. A., Swaysland, W., Wiener, A. F. (1877-80). The Illustrated Book of Canaries and Cage
[73]Dyson,C.E:"Bird-Keeping",(1878)
[74]C.W.Gedney: "foreign cage birds"(1879)
[75]Butler,G:"Foreign Finches in Captivity",1895-1896
【現在まで続く白文鳥の系譜】
「江戸時代に白文鳥がいたかもしれないが、それは散発的なものであり、現在の白文鳥とは関係ない。現在広く飼われている白文鳥は、明治になって弥富市で生まれた」という意見を見ることがある。
しかし、これまで見てきたように、幕末から明治初期の白文鳥は、第二次大戦後に弥富市で生産されていた白文鳥と同じ遺伝様式(B1)を持っている。大英博物館に残る絵も、弥富市で生産されていた白文鳥の雛と同じ特徴(B2)を持っている。また、白文鳥の日本国内の記録と、海外における記録は、幕末から途切れることなく明治時代まで続いている。
さらに、幕末に誕生した白文鳥が遺伝的に顕性である点も重要である。つまり白文鳥から白文鳥が生まれるので、遺伝学の知識がなくても、白文鳥の系統を見失うことなく、繁殖を続けることができる。そういったことを考えれば、幕末に生まれた白文鳥が、連綿と現代まで続いていることは間違いないだろう。
第八章 まとめ:桜文鳥と白文鳥はいつ誕生したのか
【変異種はいつ誕生したのか】
これまでに述べたことから、弘化年間に、大阪、京都、名古屋、江戸に、文鳥の変異種がいたことが分かる。変異種が全国の主要都市に広がっていることと、山本亡羊、吉田雀巣庵が、変異種が複数いることを示し、文鳥の種類として記述してることから、散発的にそのような文鳥が現れて消えたのではなく、品種として存在していたと推定できる。また天保十四年(1843年)から天保十五年(1844年)にかけて大久保忠保が一つがい五十両で購入し、弘化四年(1847年)には大奥で二羽を二両二分で購入しているのは、弘化年間(1845-1848)に、繁殖が上手くいき、変異種の数が増えて価格が下がっていたからだと思われる。
この弘化年間の変異種は、桜文鳥であっただろう。吉田雀巣庵の「アゴシロ」は、桜文鳥の特徴であるし、鳩小禽等図にある文鳥も、桜文鳥を描いている。また仮にこの時期に白文鳥がいたとすると、嘉永年間に七十両相当で取引されるということに矛盾する。
【白文鳥が生まれた時を推定する】
では、白文鳥はいつ誕生したのか。確実な記録は、スウィンホーによる1865年の記録だ。また、注目すべきは、1860年に、コシジロキンパラ(Lonchura striata)の変異種である十姉妹がイギリスに運ばれ、ロンドン動物協会に購入されているという事実だ。[76][77]もし、白文鳥が横浜あるいは江戸の飼鳥屋で入手可能であれば、十姉妹とともにイギリスに運ばれただろう。久永章武の記事によれば、嘉永年間(1848-1855)には、高価であり、需要に供給が追い付いていなかったとあるが、その状況が続き、1860年にはまだ入手困難な状況だったと推測する。
これまで述べてきたことから、桜文鳥と白文鳥の誕生の時期を推定すると次になる。
1844年:この頃までに、桜文鳥が誕生した。
1848年:この頃までに、桜文鳥は大阪、京都、名古屋、江戸に広まった。
1855年:この頃までに、(おそらく名古屋で)白文鳥が誕生した
1860年:この頃まで、白文鳥は数が少なく、あまり出回っていなかった。
1865年:白文鳥が出回り、イギリスに輸出され始めた。
1868年:明治維新。武家の没落のため、飼鳥の趣味は廃れた。
1876年:この頃から、白文鳥の輸出が増えていった。
これが、この記事の結論である。
[76]Ingvar Svanberg.Towards a cultural history of the Bengalese Finch ( Lonchura domestica).Der Zoologische Garten 77(5),2008,p.334-344
[77]鷲尾絖一郎.ヨーロッパに渡った十姉妹の謎.遊々社,2002
あとがき:残された疑問
江戸時代、桜文鳥が誕生し、続いて白文鳥が誕生した。このことは、川口清五郎や石井時彦が言うような、「桜文鳥を交配することで、白文鳥を生み出した」ということを意味しない。白文鳥か桜文鳥かを決めるのは、顕性白遺伝子という一つの遺伝子であり、桜文鳥をどれだけ掛け合わせても白文鳥にはならないからだ。
仮に、江戸時代の白文鳥が潜性遺伝子によるとしたら、「白遺伝子が存在するが、白文鳥は存在しない」ということがありえた。近親交配を重ねることで、白文鳥が生まれることもあっただろう。
しかし、すでに見てきたように、江戸時代の白文鳥は顕性遺伝子によるものである。つまり遺伝子の出現と、白文鳥の出現は同時でなければならない。白文鳥(顕性白遺伝子)は突然変異によって生まれた、とするのが自然な説明だろう。
ただ、突然変異説にも難がある。桜文鳥、白文鳥とつづけて誕生しているが、突然変異はそんなに都合よく続くものだろうか。突然変異が起きる確率は、個体数に比例するので[78]、数の少ない桜文鳥の中に、白文鳥が出現したとは考えづらい。
桜文鳥がどのように現れたのかも不明確である。多くの文鳥飼育者の経験によれば、桜文鳥の白い差し毛は、その量の多少について、量的遺伝をする。したがって、白い毛をつくる多数の遺伝子が存在すると考えられるが[79]、多数の遺伝子の出現をどう説明したらよいのか。なお、桜文鳥の体色はトランスポゾンによるという仮説もあるが[80]、私はその当否を判断する知識がない。
また、白文鳥と同時期に近縁種のコシジロキンパラから変異種の十姉妹が生まれたことを、前章で述べた。弘化年間には、さらに、コシグロキンパラ(Lonchura leucogastroides)[81]、シマキンパラ(Lonchura punctulata)[82]の変異種の記録もある。これらは文鳥の変異種の出現と無関係だろうか。それとも変異種の出現は、異種間の交配によるものだろうか。[83]
この記事において、私は、「白文鳥がいつ誕生したのか」について述べた。しかし、「白文鳥がどのように誕生したのか」については、明確な答えを持っていない。
[78]個体数Nの集団において、1羽の個体に突然変異の起きる確率をpとする。この集団において、少なくとも1羽の個体に突然変異の起きる確率qは、q=1-(1-p)^N であるから、pNが十分に小さい場合に、一次近似を求めれば、q=pNである。
[79]J.F.クロー.遺伝学概説 原書第8版,培風館,1991,p.250
[80]手嶌楓.文鳥の羽色で学ぶゆる遺伝学.楓工房,2019,p.38-42
[81]弘化四未年御慰言贈帳、八月九日
https://www.archives.go.jp/publication/kita/pdf/onagusami_zenbun.pdf(参照2024-10-12)
[82]東京国立博物館.博物館禽譜(1)、しまきんぱら・すずめ
https://webarchives.tnm.jp/infolib/meta_pub/G0000002070723ZF_518(参照2024-10-12)
[83]文鳥とコシジロキンパラ、コシグロキンパラの交雑の記録は、細川博昭.大江戸飼鳥草紙 江戸のペットブーム.吉川弘文館,2006,p.130