父と私
今日、父が死んだ。自殺だった。
父と同居していた母によると、今年に入ってから、父は毎日のように死にたいと訴えていた。八十二歳となり生きる意欲や気力がなくなり、体力の低下や体調の悪さとともに何もかもが辛いのだという。
会いに行った時には、死にたくなる辛さの一つとして、「夜中に口の中が渇く」というのを挙げていた。なんでそんなことで死にたくなるのか理解できなかったが、話を聞くと、寝ている二階から降りて台所まで行き、水を飲んでまた二階に上がるのが辛いようだった。「だったら、寝室に飲み物を置いておけばいいじゃない」と提案すると、そこで初めて気づいたらしく、水筒がいいのか、ペットボトルがいいのかなどと、母と相談し始めた。
その時は、父が抱えている様々な問題は、個々に解決できる問題であって、判断力が衰えたため、自分でどうしていいか分からなくなっているだけのように思われた。精神科に通っていたので、病院でもらった薬を飲みつつ、生活上の問題を一つずつ潰していけば、やがて天寿を迎えるだろう、と思っていた。
しかし父の希死念慮は収まらなかった。母は、買い物から帰ってくるたびに、父が死んでいるのではないかと怯えて、毎日を過ごしていた。私のところにも一度、「今から首を吊る。今までありがとう」と電話がかかって来た。
その時も何が辛いのか話を聞いて、色々と提案をしたが、父からは「もういいんだ。十分なんだ。もう十分生きたんだよ」と言われてしまい、返す言葉が見つからなかった。それでも何とか言いくるめて自殺を中止させたが、父が抱えている様々な問題の向こうの、黒々とした苦しみそのものが見えたような気がして、恐ろしく感じた。やがて実行するだろうという予感が私の中に広がった。
その電話の数日後、2024年5月21日に、父は首を吊った。母が発見し、父は救急車で病院に運ばれた。
父は1942年、戦時下の東京で生まれた。生まれるのに良い時期ではなかったはずだ。生まれてすぐに、重い肺炎にかかったという。医者には、「長く持つことはない」と言われた。両親に、「今日もまだ生きている」、「今日もまだ生きている」と言われつづけ、そのまま八十二年間生きてしまった、と遺書には書いてある。
父の父、つまり祖父は、帝国大学を卒業した官僚だった。日本の戦争に批判的であり、戦争のさなかに職を辞した。それ以来無職だったので、父の兄弟たちは、プライドと貧困のあいだで育った。
父は七人兄弟の二番目だった。男子五人のうち一人は幼くして死んだ。残り四人のうち三人は東京大学に進学した。東大に進学できなかった唯一の男子が、父であった。大学受験での挫折、学生運動への中途半端な加担、大学院へ進学するも決まらない就職、学生結婚を経て、私が生まれた。父は看護婦がひょいと片手に持って来た赤ん坊、つまり私を見て 自分の無力さを救う希望であるかのように感じたという。そして群馬県の学校に就職した。私が知っている父はそこからである。
最も古い父の記憶は、幼稚園の頃、毎晩寝る前にお話をしてくれた時のことだ。零戦の活躍や東京の空襲、朝鮮半島におけるミグ15、蒙古の襲来、鬼子母神の話、細胞や原子や進化論や地動説のような科学に関すること、オイディプスの悲劇やトロイの木馬伝説、子供の頃近所にいたケチな兄妹の話、材木屋で遊んだ話、フェデリコ・フェリーニの映画、戦艦ポチョムキンなど思い出せばきりがない。私にとって、父は、驚くべき知識の宝庫であった。
同時に、父はユーモアに満ちた、いやむしろ、くだらない、しばしば下品な冗談を連発する人間だった。それは私も同じであり、結局は、幼稚園から小学校の頃に父から受けた影響から逃れられず、私の大半は、教養とくだらなさによってできていると感じる。
私が成長するにつれて、父と私の関係は、それほど良好なものではなくなった。父とは何かにつけて衝突することが増え、嫌気がさして、あまり父とは関わらないようになっていった。私は、父を憎むというよりもむしろ、家族とは互いを傷つけあう制度であるという思いを強めていった。今となっては、衝突のあれこれを蒸し返すつもりはないし、もう多くは忘れてしまったが。
ともかく、父は死んだ。父は、「自分の生命の終焉を当人が決定できる、そんな自由の権利もあるはずだ、との信念」と遺書に書いている。そういった原理主義を貫く父は、たしかに私の知っている父である。死にたいという生前の父に対して、私は「生きるのが苦しいのは分かったから、一個ずつ問題を改善しよう、少しずつでもあなたの生活をマシに出来るはずだ」といった、その場しのぎというか、父の死にたいという要求を誤魔化すような対応を続けた。父には、正面から対峙することを避けた、誠実さに欠けた態度と映ったかもしれない。私は、内心では父の考えを肯定しつつも、口先ではそれを否定し続けた。怖かったからだ。
知らせを受け病院に駆けつけた時、父は、人工呼吸器をつけ、ただ静かに横たわっていた。無神論者であり唯物論者である父は、死んで天国に行くことも、成仏することもないだろう。しかし、少なくとも、今、あらゆる苦しみから解放されているように見えた。もし今後、治療が成功して父の意識がもどれば、遺書の中で「毎日が地獄」と呼んだ、その地獄に連れ戻されることになる。いや、脳と身体に大きなダメージを負った今となっては、まともな生活は出来ないだろうから、苦しみは何倍にもなるはずだ。父は、ただ死ぬことだけを望みながら、生かされ続けることになるだろう。それは、父に対する最も残酷な仕打ちに思われた。治療を中止することで、家族の意見は一致した。
「いま、人工呼吸器を外すことは出来ない」と病院には言われたが、ともかく積極的な治療は一切しないことになった。「もう意識が戻ることはないだろう」という言葉を聞いて、ほっとした。
しばらくすると自発的な呼吸が回復したので、その時点で人工呼吸器を外して、あとは死ぬのを待つことになった。肺炎のような症状になり、高熱を出しながらも、父はなかなか死ななかった。生まれた時も死ぬ時も「今日もまだ生きている」だ、と母と笑った。不謹慎かもしれないが、父なら、やはりこの状況を笑うだろうと思った。これだけ生きる力がありながら、なぜ死を選んだのか。悲惨であり、滑稽だった。
病院では、父を直視できなかった。父の身体は熱を持ち、ときどき痙攣していた。「身体が反応しているだけだ。苦しんでいるのではない」と自分を納得させたが、それでも、父の身体が死体となっていく様子を見るのは、耐え難かった。同時に、死こそが父にとっての救いであり、一日も早く死なせてやりたいと思った。意識がない以上、この肉体に父は存在せず、ただ生命をもった死体であるとも思った。見舞いに行くたびに、自分でも驚くほどの汗が身体を流れた。
首を吊ってから四十九日後の今日、父は死んだ。最後まで意識が戻らなかったのは幸いだった。
「おとうさん、お話しして」と言って父の布団に潜り込んだ頃から、私は何も変わっていない。そして、それから、わずか四十数年後に、「このはてしない苦痛から解放されるには、死んで土に帰るしかありません。さようなら」という父の遺書を読んでいる。
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