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いつかまっすぐ向き合えるように


自分の中で「これはすごい!」というものに出会った時。
言い表せない喜びや、胸が熱くなるのと一緒に目頭も熱くなって涙がこぼれたりする。そういう興奮を味わうたび、私も頑張ろうというエネルギーと、とてつもない虚しさに見舞われたりする。

そして昂揚した体が少し冷えだしたころに、みんな大なり小なり努力や継続の上に成り立っているのだ。という事を思い出し、虚しさや悔しさを覚える事が御門違いだなあ。というところに落ち着く、までが大体私の思考のワンセットである。

私はとにかく努力ないし継続が苦手な人間だ。もうこれはZ会をためにためていた小学生の頃から変わらない。

なぜそのことがこんなにも後ろめたいのか。ということは、やればいいのに、やらないから、やれないから、計画を立てられない、などなどなど。もう本当に「誰でもできる事を何故できないのか」ということに尽きるのかもしれない。

でもあえて言うとしたら、「継続する事も素晴らしい才能です」そう言い切りたい。が、やることをやってないのなんてやってる側からしたらわかるものだ。それが義務でなくとも。むしろ義務でないものこそ。

時間は生きている人に平等に降り注ぐものだ。みんなその時間をやりくりして生きているのだ。効率を上げること、やり方を工夫すること、やっている人は忙しくてもちゃんと時間を作り出しているのだ。

そのことが分からないほど無知には振る舞えないので、素晴らしいものに出会った時、喜びや感動とともに、所在なく体を小さく小さく縮こめて恥ずかしさに震えるしかないのだ。

そして頭では理解している。このジレンマから、コンプレックスから抜けだすには、いい加減やるしかないのだ。

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ただ非常に残念な事に、これを勇み足で派手に始めようとすると、私は概ね「派手に転ぶ」というのは過去実証済みである。日記帳を買うとか、何かに入会するとか、お金を使って後に引けないようにすると、すればするほど億劫になってしまう。なんて難儀な性格なんだろうか。ぜんぜん笑えない。

ということで、自分の中ではなるべくさりげなく、気負わなくて済むように今日で6日目になったnote更新を始めてみている。6日更新でも自分としてはなかなかの快挙で、正直三日坊主で終了するんじゃないかと思っていた。そこかしこに宣言したりしない、気負いすぎない転倒防止策が功を奏したのかもしれない。

自分の中身の棚卸しのような気持ちで書いているので、時折目も当てられないような内容もあるかもしれないけれど、そんな時はそっとページから離れてくださると心の底からありがたい。いまのところ写真の練習にもなるので、アイキャッチも自分で撮った写真をなるべく使おうとしているところ。


自分が素晴らしいと思ったものを生み出した人々に少しでも恥ずかしくない自分であれるように、まずはできることから一歩ずつ。

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