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自分を好きとか嫌いとか

私は自分の事を「好き」とか「嫌い」とかの軸になるべく乗せないようにしている。

これはどなたかの対談の文章を読んだことをお手本にしている。(おそらく糸井重里さん関連だと思う)ただ、その引用元がどうにもこうにもすっかり思い出せなくて、非常に白状なことなのだけれどこの際、私が考え出した訳ではないということだけあらかじめお伝えしておきたい。

そのきっかけになった内容というのは、
「そもそも自分の事を好きとか嫌いとかで考える事はしなくてよいのではないか」
ということ。詳細はもう私もおぼろげになってしまっていて、とても正確に書けたものではないので割愛させて頂くけれど、私にとってこの考え方は物凄く心を軽くしてくれる考え方だった。

一つ前のnoteでもさらりと触れたけれど、私はコンプレックスをそれなりに抱えて成長してきた。顔の造形から始まり、癖っ毛の髪の毛、パンパンの下半身、角ばった肩などの外見的要因。内面のひねくれたところや、どうにも賑やかなグループに馴染めないところどなどあげればキリがない。今思うと「戦ってるなーがんばってるなー」と思ってしまうけれど、でも10代の頃は真剣にそれらが如何ともしがたくて苦しかったのだ。

もちろん成長していくにつれて、活かし方が分かってきて、気持ちは薄れていったけれど、それでも言うなれば自分のことは「嫌い」だった。今も「情けないなあ」と思うことばかりなので、胸を張れたものではないけれど少なくとも「嫌いではない」と言える。


それは冒頭の言葉を読んだ時に、
「確かに、なぜ私は他の選択肢もない自身という存在を、好きとか嫌いとか判断しようとしてるんだろうか」
と思えたことが大きく影響している。

だって、嫌っていたって何の得もしない。ましてや、私が誰かと入れ替われるわけでもない。この「私」を最大限使って、なるべく「良く」していくしかないんじゃん。

そんな当たり前のことがその時なんだか物凄く腑に落ちて、視界がふわっと開けた。スヌーピー的に言うと「配られたカードで勝負するしかないんだ、それがどういう意味であれ」というやつである。

そう思うと、嫌っていることこそ馬鹿らしいこともないし、好きになろうとする必要もそこまでない。好きでも嫌いでも私は生きてる限り私だから。好きで居れたらハッピーかも知れないけれど、今の自分が嫌いじゃないと思えるだけで上等なものだと私は思っている。マイナスじゃないってそれだけでとても心が楽だ。

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そうは言っても、人間だから本気で嫌になってズドーンと穴の底に落ちたようなメンタルの時もある。そういうときは、自分をなるべく好き嫌いという軸から離れた遠い場所に置いて置くような気持ちでいるように意識している。落ち込んでも、悲しくても、嫌いという軸に囚われないように。

(なんとなく、自分の頭の中のイメージではXY軸じゃなくて、Z軸に置くイメージなのだけど、これは上手く伝わらないような気がするので、詳細は割愛しておく。)

考えの方の癖を変えることは簡単なことじゃないかもしれないけれど、自分を嫌いになってしまった誰かが訪れてくれた時のために、自分のことそんなに嫌わなくても大丈夫そうだよ。という言葉だけ、此処にひっそりと置いていきたいと思う。

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