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優しいは難しい


僭越ながら、友人知人から『優しい』と言ってもらう事がある。
これはなんというか、優しいと受け取ってくれる人こそ優しいのだという持論がある。『優しい』とそれを理解できるだけ持ち合わせた優しさと懐の広さがあるからこそ、誰かに優しいと言えるのだと思うから。

そして私は、「優しくしてもらったことを真似しているだけなんだよな」と『優しい』と言ってもらう度に思う。優しいということを、どう捉えるかによってこれは違うかもしれないけれど。

「あ、そんな考え方をこの人はできるんだ」というところから、人工知能ロボットのように毎回少しずつ記憶を蓄積していっているだけなのだ。根っから優しい人間では決してない。どちらかというと不用意に人を傷つけてばかりだったのではないかとすら思う。

もともと学生のころはとにかく包み隠さず、歯に衣着せず、思ったことをそのまま言葉にしてしまっていた。節目節目で、正面から返してくれる友人が「なんでそんな言い方しかできないの?」と怒ってくれたり、年上の友達が「そんなのそのまま言ったら男の子は傷ついちゃうよ」と諭してくれたりして、その度、「ああ悪意がない事も人をこんなに傷つけるんだなあ」と少しずつ学習して、今の私が形成されている。

そうしてまた蓄積して、私は意識して言葉を発するようになった。言い方を少しずつ考えて、変えたり。言わなくていいことは言わないとか。当たり前ことだろうけれど、そういうことを少しずつ。すごく打算的なやつだなと思っていたころもある。臆病な人間だから、人を傷つけることの痛みや辛さにはなれないし、嫌われる勇気なんて持てやしない時なんてたくさんあった。

そういう意味では『優しい』は自分が人を傷つけてしまったという痛みから逃れるための自己防衛だ。


だけれど、最近はこうも思っている。相手に優しいと思ってもらえたなら、傷をつけずにすんだということだから、それなら打算的な時があろうとも、まあ及第点なんじゃない?それも、まあ私が不器用なりに作ってきた『優しい』の形だろうと。

とはいえ、こうして書いている最中、ふと、「最近はあまり意識して話してはないな」と思った。意識していないというか、なんだか馴染んで自分の一部になってきた感じだろうか。年月と習慣というのは人をどんどん変えていくのだろうな。

これが年の功というやつかなあ。なんて自分の変化を認める、10月になった木曜日。今日は綺麗な満月だ。

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