「桜ふぶき」(小さな思い出)


桜ふぶきを見たのは後にも先にもあの時だった。
私は京都のある私立大学に合格し、住むところは私の住んでいるS県の運営する県人寮になった。県人寮とは京都の大学に通うS県出身の学生のためにS県が運営している学生寮であった。その県人寮は京都の京福(けいふく)電鉄という私鉄の「二ノ瀬」という駅のそばにあった。


 19歳の私は大学の入学式に出るため、前の日に母と九州から特急と新幹線を乗り継ぎ、京都まで来て、あらかじめ予約してあった東山にある旅館に宿泊した。明くる日、大学で入学式があり、それが済むと県人寮へ行き入寮の手続きを行う予定だった。


 ところが、ちょうどその時期京都御所の一般開放が行われており、歴史好きな母は寄って行こうと言い出した。母なぞは滅多に京都へ来ることはないし、なおかつ京都御所を見物できる機会もこの時を逃してはないと思ったのだろう。別に興味のない私はしぶしぶ母に付き合った。
そのため、京福(けいふく)電鉄の始発駅である出町柳駅に着いたのは予定より1時間遅れてしまった。始発駅の出町柳から二ノ瀬までは約20分ほどの乗車時間であるが、初めて乗る京福電鉄には男性の車掌が乗っているのが珍しかった。車窓から見える景色は住宅街から田園風景に変わり、だんだんと山の中へ入っていく感じであった。


二ノ瀬駅に着いたのは午後2時を過ぎていた。降り立ったのは私と母だけであった。
二ノ瀬駅は山の中の駅という趣で当然無人駅であった。4月中旬の時期で駅の周りには多くの桜の木があり、満開であった。
 私と母は満開の桜をしばし眺めていた。とその時一陣の風が吹きわたり、周りの桜の木という木から桜の花が雪のように舞い、私たちを包み込んだ。
「わー、すごい」と母は驚きの声を上げた。


これが桜ふぶきか、と私も初めて見るその光景に見とれていた。風が止むとあたりには雪が降ったように、桜の花びらがそこら中に落ちていた。
 遠くの山からは鳥のさえずりが聞こえていた。


私と母は駅を下って降り、県人寮への道を歩いた。前を歩く小柄な母の背中が記憶に残っている。その母も先年亡くなり、県人寮も既に無い。
 春、桜の季節になると、その桜ふぶきの光景を今でも思い出す。


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