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『夜の呼吸』

やなぎらっこ(ラッコブラザーズ)
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「さぁ、皆さん。夜になりましたよ。
夜の呼吸へ切り替えてください。夜には不思議なことが起こりますからね」

街角にできた青い看板のバーに入ったら、能面みたいな男が一人、酒を呑んでいた。ソーシャルなディスタンスを保ちつつ自分は席についた。静かである。そして照明は暗すぎる。
音もたてずにつるりと滑り込んできたマスターが、自分の前に立ち一杯のグラスをカウンターに置いた。
「あちらから」
自分は三度の飯より酒が好きで、奢ってもらう酒はもっと好きだ。
能面男をチラリと見ると、長い長い煙草を吸っている。あんなに長い煙草は見たことがない。おそらく外国の人だと自分は見当をつけ、無言で軽く会釈した。能面男は唇から細い薄紫の煙を吐き出しつつ小首を傾げる仕草をした。外国人ではなく平家の末裔かもしれない。

自分はグラスを傾けた。口に入れると丸くて不思議な味がした。燻された柱のような香りが口中に広がり、シナモンがまぶされたアップルのような甘みも感じる。色は無色透明である。
「これは…」
問いかけようと口を開いたが、やめた。自分はなんでも受け入れる方である。毒をくらわば皿まで…と心で呟き、もう一口飲んだ。驚いたことに次はジンジャーの味がした。液体を飲み下した喉に刺激があった。じっと手元のグラスを見た。やはり無色透明である。急いで次の一口を口に含み、今度は少し味わった。お婆ちゃんの肉じゃがやん、これ。醤油とみりんが染み込んだ懐かしい味がした。祖母の丸い小さな背中がぼうっと頭に浮かんだ。

「"地球"というお酒ですよ」
いつのまにか隣の席に座っていた能面男が自分の耳元で囁いた。
「地球?」
能面男の突然の近さは気にならず、寧ろこの飲みものについてもっと教えて欲しい心持ちだった。この魅惑的な酒の正体が知れるなら能面男の家まで行って男の髪を洗ってやってもいいとさえ思った。
「いったい、どういうお酒なんですか?どうして味が変わるの?」
「それは…毎晩違う味がする。明け方近くにある場所に行けば、それは空から落ちてくる」
「ばかな…」
能面男は薄く笑ったように見えた。無音の時間がしばらく続き、自分は確認するようにグラスを傾けて液体を口に流し込んだ。何の味もなかった。喉ごしも普通で、ただの水道水を飲んでいる感じである。本当にアルコールが入っているのだろうか?と訝った途端、目の前が揺れる感覚に陥った。その後、薄暗い店内のそこら中に赤や青や黄色や緑色の星が光っているのが見えた。地面にも、たくさんの光が転がっている。驚いて能面男の方を向いた。
何か説明してくれるのではないかと期待して、じっと顔を見ていたが何の言葉も発しない。頬杖をついたまま長い長い煙草を吸っている。

じきに、自分は味わったことのない多幸感に満たされていることに気づいた。これが"地球"なのか、と思った。この世のすべてが解明された、と唐突に思った。生まれてきた意味がわかった、とさえ思った。
もっと、もっと深く包まれたいと、自分はグラスを再び手にしたが、どうやらさきほどの一口で飲み干してしまったらしく酒は一滴も入っていなかった。未練がましくグラスを揺らして底を覗いていると、端のほうに小さな丸いものが転がっているのが見えた。
「それはいけない」
慌てたような能面男の声が聞こえた。自分は無視して、グラスを一気に呷った。飲み込む時に違和感を感じるだろうと予想していたが、反して何も感じなかった。
隣を見ると能面男の姿はなく、バケツをひっくり返したような多数の星たちも、ひとつ残らず消えていた。
自分は言い知れぬ喪失感と倦怠感を覚え、店をあとにした。
店を出る時、マスターが自分に声をかけた。
「夜には夜の呼吸ですよ。お気をつけて」

外は満天の星であった。
ホンモノの星である。
さて、夜の呼吸とはなんだろう?
さて、あの男は誰だったのだろう?
さて、自分が最後に飲み込んだものはいったい何だったのだろう?

謎に包まれたまま、自分は歩き始めた。
夜には、不思議なことがある。

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