見出し画像

大東京カワセミ日記その50 怒鳴るカワセミ撮影老人と「絵はがき写真」について。

カワセミを近所の川と公園に見にいくようになって、ひとつ気づいたことがある。

この鳥には、おっかけがしばしばついている、ということだ。

鉄オタの中に撮り鉄という趣味の世界があることを私も知っているが、それにたとえるならば、撮りカワセミという世界がある。

そして撮りカワセミの世界は、どうやら「老人男性」の比率が高いようだ。

こちらの公園にいた。数えてみたが、おそらく四人から五人。ひとり40代っぽいひとが最初いたけれど、見かけなくなった。残りすべて70歳以上と思われる。

さて、このなかにひとり問題人物がいる。

「怒鳴るカワセミ撮影老人」である。

5月、公園で、この老人がカワセミを撮影している前を、カップルが通り過ぎた時に、「おい、撮影しているんだ、どけ!」と怒鳴りつけたのをみて、こんなメモを残しておいたことがあった。https://note.com/yanabo/n/nfd739fb03b04?magazine_key=mac0b1637c590

公園は文字通り公のもので、老人の持ち物ではない。誰もが自由に出入りできるし、どこを歩いてもいい。カワセミ撮影の老人を優遇する措置は何一つ講じられていない。

そして、彼は、当たり前のように怒鳴るのであった。一度ではない、何度も目撃したので、彼にとっては当たり前の行為なのだろう。

「おい、撮影しているんだ、邪魔だぞ」「逃げるじゃないか。鳥を指差すな!」

という具合である。

残りの3〜4人の仲良しおじいさんたちは、彼と異なり、怒鳴るわけではない。おとなしそうな人たちである。が、この怒鳴る老人といつも一緒にいて、彼が怒鳴る行為をとがめることはない。

「怒鳴る老人」は、カワセミを撮るために、実はもうひとつルール違反を犯している。

カワセミがふだん餌をとっている川には、作業用のコンクリート階段がある。ただし、安全のために柵があり、関係者以外は立ち入り禁止である。その階段とたたきの部分が、カワセミが川へ飛び込む「ジャンプ台」になっている。

「怒鳴る老人」は、どうやらこの柵を乗り越えて、コンクリートの階段を降り、水抜きの排水の穴に、自分が用意した枝をつっこんでしばしば撮影しているのであった。

枝は、二股に分かれた枯れ枝のこともあり、緑豊かなヒノキの葉っぱ付きのときもある。6月には、青紫の紫陽花を指していた。

なぜ、そんなことをするのかというと、こうした枝にとまったカワセミの写真を撮りたいから、である。

8月28日日曜日朝。カワセミの父ちゃん母ちゃんのラブアフェアがあったとき、まさに「怒鳴る老人」と三人のおじいさんが、児童公園の一角に陣取り、二股の枝をさした場所にむかって、カメラを構えていた。

彼らは毎日のようにきているので、付近のお散歩老人たちと顔見知りだったりする。対岸を通るお散歩老人にむかって、「どうだい、いい枝だろう。これ、大切にキープしておいたんだ」と、「怒鳴る老人」は、ガハガハ大声でわらいながら、話しかける。

近所には野球場がある。日曜の朝は少年野球チームが頻繁に川沿いを通りかかる。大きなカメラをかかえた老人たちが、何かを狙っている。対岸を歩く少年たちは、当然川を覗き込む。

「え、なにがいるの」「あれかな?」

すると、「怒鳴る老人」は即座に怒鳴るのであった。

「おい、指差すな! 逃げるだろ」「大声を出すな!逃げるだろ」

少年のどの声より大きく、対岸に向かって、「怒鳴る老人」は「怒鳴る」のであった。

少年野球を率いる30代の監督は、その老人を一瞥して、少年たちに「さあ、いくぞ」と声をかけたあとに、ひとりごちた。「あんたの声が、いちばん大声だろ」と。

一緒にいる仲良し老人たちは、そんな「怒鳴る老人」の横にいて、のんびりとカメラを構えている。彼らにとっては日常なのだ。そしておそらく、ちょっと怖いのだろう。ついでにいうと、怒鳴る彼がいるほうが心置きなく、カワセミの写真がとれるからだろう。

「怒鳴る老人」は喫煙者でもある。児童公園の脇で、タバコを吸いながら、撮影をする。

ちなみにこの川や公園の名前とカワセミを一緒にいれて検索しても、カワセミの「いい写真」はインターネット上にまったくでてこない。

「怒鳴る老人」とその仲間たちのカワセミ写真が、どこかに発表されたりすることはあるのかどうか。それはわからない。

ただ、ひとつわかるのは、「怒鳴る老人」とその仲間たちが、この都心のコンクリート張りの階段や、ゴミが絡み付いた梯子や、カップ麺がころがっている河原の葦にとまっているカワセミの姿を、「美しくない」と思っていることだ。なにより「写真にならない」と思っていることだ。

でなければ、違法行為を冒してまで、枯れ枝やヒノキや紫陽花を川に迫り出す形で配置する必要はない。

「怒鳴る老人」とその仲間の頭には、「理想のカワセミ写真」がある。

それは、コンクリートの階段や手すりやカップ麺が映っていない、「美しい日本の自然」に佇むカワセミの写真だ。

実際、インターネットを検索すると、そんな「美しい日本の自然に佇むカワセミ」の写真が無限に出てくる。ツイッターだけでも大量に出てくる。中には、桜にとまるカワセミもあるし、なんと紫陽花にとまるカワセミもある。

5月からの4ヶ月、コロナ禍もあって私はほとんど出歩かない。唯一の定期的な散歩が近所のカワセミの住む川に行くことだった。必然、この老人たちを見かけることも多々ある。おそらくは彼らにとって唯一のフィールドなのだろう。

でも、そのフィールドを、「怒鳴る老人」と仲間たちは、本当に愛してはいないようである。

「怒鳴る老人」は、東京オリンピックの撮影席に居並ぶプロカメラマンと同レベルの超高級機材をかつぎ、紫陽花やヒノキの枝を設置し、「コンクリートの階段」や「ごみだらけの梯子」や「カップ麺のから」を排除した、「日本の美しい自然」の捏造にひたすら励んでいるのであった。

どういうことか。

「怒鳴る老人」たちは、カワセミの「絵はがき」を作成しているわけである。

そして、この「絵はがき」製作を、写真を趣味とする暴走老人たちに勧めてきたのは、他ならぬ写真雑誌である。

写真雑誌は、しばしば「絵はがき」のつくりかたを読者に伝授する。

主題を切り取り、画面を整理し、より美しく、より派手に。余分なものは切り捨てる。

そうやって整理整頓された写真は、とった人間がお手本と見比べて、うん、よくできた!と自己満足する「点数の良かった模試」である。

つまり「絵はがき」である。

京都に修学旅行にいったとき、ちょっとカメラが趣味になった人間は、ついつい「かっこいい金閣寺」「ダイナミックな清水寺」を撮ってしまう。

でも、数年後、あるいは数十年後、見て楽しい、そして価値のある写真は、同級生とじゃれあっている民宿の写真であり、金閣寺の前で外国人客に英語で話しかけられて、緊張している英語の先生の写真だったりするのだ。

「かっこいい金閣寺」「ダイナミックな清水寺」は、すでに何千万回と撮られた「絵はがき」にすぎない。

いま、写真は、人類にとってもっとも重要でかつ簡便なメディアの表現方法になった。カメラは世界人類がみんな持っているメディアの道具となった。

ただしこのカメラは、スマホである。

30万円のボディに40万円のレンズをつけ、5万円の三脚を据えた「カワセミ撮影装置」ではない。

前にも書いたが、いま「写真雑誌」が次々と休刊している。そんな写真雑誌の読者の大半は「写真老人」である。そのなかに「カワセミ撮影老人」たちも入っている。作例をみればわかるが、鉄道と桜と富士山と鳥。この4つが異様に多い。

そして、みんなが「絵はがき」づくりに邁進している。

スマホで人々がとる写真は違う。多くは自分までが映っている自撮り、である。

修学旅行の例と同様、メディアとしての写真を考えた時、ぼけぼけぶれぶれのスマホで撮った公園や近所の子供達の声が入った、都市河川のゴミの上で餌をとるカワセミの動画のほうが、違法行為を繰り返して排水溝に刺したアジサイにとまる「美しいカワセミの絵はがき」よりも、桁違いに価値がある。

理想の「絵はがき」をつくるために、今日も「怒鳴る老人」たちは、道ゆく人に「邪魔だ」「指差すな」「声を出すな」と怒鳴りつけ、指差よりよっぽどおっかない大砲のような超望遠レンズを10センチの青い鳥に向け、柵を越えて、あるわけのないヒノキや紫陽花をつっこみ、そこにとまったカワセミの姿を秒20枚で連写するわけである。

「怒鳴る老人」と「絵はがき写真」。

うまく撮れれば撮れるほど、「どこかで誰かがみた陳腐できれいな写真」になってしまう。そんな「陳腐」をハードディスクに何万枚も溜め込み続ける。

美しさの基準が己の中になく、お手本を写すだけが自己目的化してしまい、そのあいだにあるさまざまな雑音を排除したくなる。

それが「絵はがき写真」だ。

よくみれば、インターネットにはそんな「絵はがき写真」がけっこうある。

リアルな場所や時間や人間や背景を「ゴミ」としてかたづけ、お手本通りの美しく(かつ退屈な)写真。

道ゆく人を怒鳴りつける老人の行為は、リアルな場所からリアルを剥ぎ取り、アジサイの花やヒノキの枝にカワセミにとまってもらう陳腐な絵はがき写真を完成させたい行為と、直結している。

写真雑誌の休刊。

カワセミ絵はがきを量産し続けているであろう「怒鳴る老人」。


画像1




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?