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国道16号線の話その3。手賀沼にはまる。

二松学舎大学行きのスクールバスをストーキングして、国道16号線から脇にそれた私たち。学校は、小高い丘にある。その丘のふもとに広がるのは手賀沼だ。

沼。

「沼」という呼び名には、「湖」や「池」に比べると、禍々しい響きがある。

今回、国道16号線から、二松学舎大学にちょいと寄り道をして、私は手賀沼に出会った。そして気づいた。16号線は、「わざわざ」この沼の近くを選んで、道となったのだ、と。

なぜ16号線は、手賀沼を選んだのか。

その考察(ほぼ妄想)について種明かしをするまえに、まずはこの手賀沼のほとりにある「道の駅」に寄ることにする。

その名も「しょうなん」である。

「柳瀬さん、湘南じゃなくて、沼南、ですからね」

相棒のAM氏が釘をさす。

そう、手賀沼の南だから、沼南。

冷たい雨が降る平日の朝7時45分という実に中途半端な時間にもかかわらず、「道の駅」の駐車場は満員だった。ずいぶん繁盛しているじゃないか。朝ごはんでも食べに来ているのだろうか。そう思って、道の駅の建物に入る。レストランを覗くと客は1人もいない。(おかしいな)と思いながら、カウンターでモーニングセットを注文しよう奥の女性に声をかけると、

「ごめんなさい、8時からなんです」

というわけで、私たちは外に出た。

すると、20人ほどのおじさんとおばさん、おじいさんとおばあさんが、ラジオ体操第一をやっている。

道の駅に併設された野菜市に、野菜を卸しにきた農家のみなさんのようだ。

寒いので、一緒にラジオ体操をやる。

腕を大きく回して〜。

ぐるぐる。ぐるぐる。

私も腕を回す。

ものすごく、遠くにきたような感覚にとらわれる。

ラジオ体操第一を終えると、おじさんおばさんおじいさんおばあさんたちは、それぞれ仕入れてきた野菜を店の中に運び、陳列し始めた。なかなかおいしそうな野菜があったのだけど、開店は9時から。無念である。

駐車場の車は、このひとたちのかな?

そう思って、建物の裏に回ると、そこには軽トラやバンが何台も停められている。こちらが、どうやら農家の方々の車のようだ。

じゃあ、駐車場を占有しているたくさんの車は、誰のものなのだろう。

疑問は解けぬまま、8時にレストランが開くまで近所をうろつく。

沼沿いには河津桜が咲いていて、沼のほとりには白鳥ボートが数台浮いている。ボートの横には本物のカモも浮いていて、杭にはカモメがとまっている。

「手賀沼、広いですねえ」

相棒のAM氏がいう。

「広いねえ」

 沼の向こうには、イトーヨーカ堂が見える。さらにその向こうには、柏市の高層マンションが見える。けっこうな距離がある。

沼のほとりにはあやしげな城があった。

「絶対宗教施設でしょ」

 AM氏が断言する。あとでレストランの脇においてあったパンフレットをみる。展望台でした。

時間がつぶれた。午前8時きっかりにカフェに入り、モーニングを食べる。

私たち以外に客は1人。おじさん。

考えてみると、沼というのをひさしぶりに見た。


あなたの近所に沼はあるか? 
あるよあるある、うちの周りは沼だらけ。
そう仰る方は、たぶん、このエリアの住人であろう。

千葉と茨城の県境であるこの地は、沼ばかりである。手賀沼より、さらに奥には印旛沼がある。北にすすめば霞ヶ浦がある。
なぜ、ここに沼があるのか。


こんなときはインターネットで検索である。
すばらしいページがありました。
「手賀沼の歴史」
http://www.kashiwa.ed.jp/gakusyu/teganuma/1/2/1-2.htm
なるほど。


ざっくりいうとこうである。
数十万年まえ、このエリアは、みんな海だった。「古東京湾」の一部で、関東は、房総半島と三浦半島の先端を除くと、西側の16号線の通っているあたりまで、ぜんぶ海中に没していた。


それが、氷河期になると海面が100m以上下降し、浅い海だったこのエリアは陸上となった。陸になった土地は、雨水で削られ、谷をいくつもつくり、太平洋側へと注いだ。この雨によって削られた谷とその出口が、手賀沼や印旛沼、霞ヶ浦の原型になる。


今度は、縄文海進で海面が上昇し、現代より数mも海面は上がった。谷とその出口には海水が流れ込み、海水をたたえた入り江となった。ちなみにこの入り江は、手賀沼、印旛沼、霞ヶ浦がすべてつながって1つの湾となったもので、鬼怒川が注いでいることから、古鬼怒湾と呼ばれる。
その後、気温が下がり、海面がやや下降すると、古鬼怒湾は、湾口部にたまった土砂が土手となり、海と次第に分断され、いまのような沼となった。
ーーーということらしい。


丘陵地に囲まれた、水深の浅い、塩水の混ざった入り江。
この条件を聞くだけで、ぴんとくる人がいるだろう。
そう、この条件こそは、古代の人が最も好む生活条件でもあるのだ。
塩水の混じった入り江は、大量の魚介類が発生する。浅い海や湿地や干潟を漁れば、子供でも簡単にたくさんの貝類が手に入る。周囲が丘陵地ならば、谷から汚染されない絞り水=淡水を得ることができる。小高い丘に住まいを構えれば、大雨にときに流される心配もない。森の幸、川の幸、海の幸が同じ場所で手に入る。となれば、そこには大型哺乳類も集まってくる。これを捕まえれば、飯にもなるし、衣類にもなる。


つまり、衣食住がすべて満たされる、最高の立地なのである。
このため、入り江があって丘陵がある場所は、概して歴史が古い。たとえば、島根の宍道湖の近辺。青森の十三湖近辺。どちらもいまもシジミの産地として知られるが、宍道湖の脇はいわずとしれた出雲があり、八百万の神が集まる場所。十三湖近辺は石器時代から縄文時代の遺跡が残り、その後も東北の文明の拠点となった。


では、手賀沼近辺はどうだろうか。貝塚に土器に古墳。やはり、思った通り、きわめて歴史の古い場所であった。


さらにネットの海をさまよっていたら、こんなサイトがありました。
香取神社の歴史を綴ったサイト。
http://www14.plala.or.jp/nikorobin/katorijinguu.html
弥生時代以降、海から淡水へとなった、奥鬼怒湾は、いきなり手賀沼、印旛沼、霞ヶ浦に分かれたわけじゃなく、巨大な「香取海」というおそらくは半汽水湖として、どーんと現在の千葉県と茨城県をまたいで鎮座していたようなのである。


この「香取」とは、手賀沼から東に向かった現在の利根川、かつての鬼怒川の流域にある古い古い神社、香取神社のことだそうである。この香取神社は歴史がむちゃくちゃ古く、手賀沼近辺にも同じ名の神社がいくつもあるらしい。ちなみにこのエリアについては、「常陸風土記」というのがなんと奈良時代初期からあって、どうやら、この千葉と茨城にまたがる沼地は、途方もない歴史をかかえていそうである。


やばい。このままだと文字通り、インターネットの沼にはまって抜けられなくなる。


脱出。


ともあれ、わかったことがある。手賀沼近辺は、旧石器時代の遺跡があることから、1万年以上ひとびとが住んだ歴史がある、とっても由緒正しい場所。この地にどうやって人が来たかというと、縄文以前は、おそらく南から人はまだ流れてきていないから、日本海側から長野、山梨を経て、八王子にいたる旧石器時代からの人の流れがこの地にたどり着いた可能性が高い。となると、その人たちは八王子からどうやってこの手賀沼に到着したのか。


国道16号線を使ったのである。

国道16号線が通っているエリアには、共通する特徴がある。それは、必ず①丘陵があること。②谷戸があること。③川や沼や海がすぐ近くにあること。以上である。この条件、どこかでみませんでしたか?
そう、さきほど私が記した、古代の人が「住みやすい」条件。あれとおんなじである。「東京カレンダー」に登場する女子が品川ナンバーと港区のマンションを必要条件とするように(ほんとにそんな女子がいるのかどうかは知りません)、古代の人たちは、丘陵と、谷戸と、川か沼か海を欲していたのである。


そして、国道16号線とは、東京湾をぐるりと囲んだ、この3つの条件を満たした場所を延々とプロットして線で結んでいった結果できた「ルート」なのである。

ちなみに、そのうちこのコラムに出てくるが、国道16号線を、誰よりも早く可視化したのは、室町時代の天才武将、太田道灌である。築城の天才と言われた太田道灌は、群雄割拠する関東の地を抑えるため、国道16号線沿いに次々と城をつくり、また16号線沿いにある敵の城を攻めた。

道灌が攻めた城のひとつが、この手賀沼にある。手賀沼の西の付け根に一時する松ヶ崎城がそれだ。道灌の君主である扇ガ谷上杉氏と敵対していた千葉氏(もちろん現在の千葉県の名の由来となった下総の武家)の配下の匝瑳氏が築城したといわれる。道灌による千葉氏攻めのときには、この城の近辺も戦場となったという。

この松ヶ崎城のちかくに、道灌の味方が築城したともいわれている戸張城がある。松ヶ崎城から国道16号線を1.5キロほど南下した、手賀沼の対岸にある。

松ヶ崎城。戸張城。どちらの城も国道16号線沿いにある。そしてさらに共通するのは、手賀沼に面した丘陵地に城を構えている、ということだ。

そう、当時の城は、なんてことはない、古代の人が好んで住んだ土地の条件と同じなのである。見晴らしのいい丘。谷戸。そして城の足元には水辺。

往時の松ヶ崎城と戸張城が面していた手賀沼はいまと異なり、印旛沼と霞ヶ浦ともつながり、銚子の先で太平洋とつながる、巨大な内海、汽水湖だった。つまり、水運を活用することができた。水運が活用できる山城。これは中世までの城の基本パターンである。そしてそんな城を建てられる場所は、たいがいもともと古墳があったり、貝塚があったりと、古来からの一等地と相場が決まっている。

なるほど。自分で書いていて気付いたのだけれど、国道16号線というのは、電車ができる近代まで、「路線地価」の高い、一等地をつないだルートともいえるわけだ。

対照的なのは、東京湾にかつて注いでいた古利根川と鬼怒川が作った、巨大な扇状地である。関東平野の地形である。国道16号線の描く馬蹄形の、ちょうど柏市から流山市にかけて、逆三角形の楔を打ち込むように、この扇状地はある。こちらは延々と丘陵地のアップダウンを味わうことになる国道16号線の道筋と景色が違う。


その違いを経験したかったら、つくばエクスプレスに乗るのがいい。

つくばエクスプレスに乗って、八潮から三郷あたり、流山にかけて車窓からの景色が東京の中心部からがらりと変わる。
空がものすごく広い。高い建物がないから、だけじゃない。起伏がないのだ。まったいら。地平線が見えそうな平たい土地が広がっている。いくつもの川にかかった橋をわたる。

この景色は、利根川が作ったものだ。ひろく見渡せるまったいらな土地は、気の遠くなるような長い時間をかけて、利根川が運んできた土砂がまんべんなくまきちらされた結果だ。そして。人間が手をいれるまで、この広い土地には、毛細血管のように、いくつもの細かな流れがあったはずだ。雨が降るたびに、流路が変わり、おそらく葦がびっしりと生え、人が歩くのも困難な河川湿原が広がっていたはずだ。

このまったいらな景色にわずかな変化が訪れるのは、柏の葉キャンパスに電車が到着した瞬間。ショッピングモールの脇を抜けて、国道16号線を越える。すると、丘陵が周囲に見えてくる。その丘陵地を超えると、利根川が流れている。利根川を渡ると、さらにひろびろとした真っ平らの景色が広がる。いちめん田んぼだ。まさに利根川が、鬼怒川がつくった巨大な扇状地がこのまっ平らな景色そのものなのだ。


そして、直前に見えた丘陵地こそが、国道16号線である。国道16号線は、途方にくれるほど広い関東平野の扇状地を遮るように、帯状につながる丘陵地帯だ。徳川家康が、暴れ川の利根川と荒川と鬼怒川をコントロールし、扇状地を計画的な田んぼにするまで、ひとびとがむしろ安心して暮らし、農業を行っていたのは、こちらの丘陵地のほうだったのである。

うわ、まだ脱出できないではないか。

とりあえず、国道16号線に戻ることにしよう。

「あ、そういえば」

AM氏がいう。

「さっきの道の駅のレストランに置いてあったパンフレットを見たらですね、武者小路実篤、この手賀沼のほとりに住んでたらしいんですよ」

なに?

「白樺派が集結したの、手賀沼だったみたいなんです。志賀直哉もバーナードリーチも。それから知ってました? 白樺派を始めた柳宗悦って、嘉納治五郎の甥っ子なんですって。ほら、こちらの我孫子市の白樺文学館ってホームページに載っている。http://www.shirakaba.ne.jp/index.htm

インターネットというやつは、どれだけ私の足取りを遅くするのだ。なんと白樺派は「国道16号線文学」だったのか。しかも、武者小路実篤はその後、宮崎を経て、埼玉県毛呂山に居を移すのだが、毛呂山も国道16号線沿いの山のほとりである。

仲良きことは美しきことかな。

というわけで(どういうわけだ)、ふたたび国道16号線に戻って、私たちは南を目指す。なにがあるのか。

「とりあえず、ラーメン屋とハーレー・ダビッドソン屋はありますね」

どこまでも無粋なAM氏である。時間は午前9時。東京を出てから、2時間30分が経過していた。新幹線に品川から乗ったらすでに大阪についている。いまだ柏市を彷徨う私たち。16号線の旅は、おそい。

続きます。

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