メディアの話、その11 ユクスキュルと熊打ち猟師とカブトムシ。

「あれ、カブトムシいませんか?」

「うん、いるね」

私の先生である、進化生物学者で環境問題の専門家、慶應義塾大学名誉教授の岸由二さんと、三浦半島小網代の谷を歩いているときのことだ。

2000年代の真夏にさしかかろうというとき。整備されていないササのトンネル(トトロのトンネル、と私たちは呼んでいた)を抜け、泥湿地にはまりそうになりながら海を目指し、歩く。湿地にはジャヤナギの小さな林がある。その脇を抜けようとしていた。

あ、カブトムシがいる。

私たちは同時にそう思ったのだ。

思わず、ヤナギを仰いだ。カブトムシ、ついてないかな?

見つかりませんでした。

でも、ちょっと気になったので岸さんに尋ねてみた。

「カブトムシ、いる、って瞬間的に思いましたよね」

「うん。思ったというか、いる、目の前にいる、そんな感じだった」

「あれ、なんだったんだろう」

すると岸さんは、とあるところで逢った猟師の話をし始めた。

「その猟師によるとね、熊が出る瞬間がわかるんだって。猟師だから毎日のように山を歩いている。で、あ、熊が出る、と感じる瞬間がたまにある。すると、山道の向こうの笹薮から、熊がひょっこり出てくる。そんな経験をね、1度ならず、何度もしているというんだ」

どうして「予言」できるんだろう、熊が出ることを。

「おそらく、長年山に入って何度も熊に出会う瞬間に遭遇するうちに、熊が出る直前の『変化』を感じとって『記憶』しているんじゃないかな。熊が出るときに特有の温度、風、空気、時間帯、光、音、そして臭い」

「記憶」というと、人間はついつい大脳皮質での「記憶」のことと限定的に考えちゃうけど、人間のセンサーは目だけじゃないし、記憶した情報を大脳から蘇らせるのは「意識」だけじゃない。音や光や臭いや温度や風向きや、さまざまな外界の情報を触覚や嗅覚や聴覚や視覚を総動員してセンシングして、データとして「記憶」していく。その「記憶」は、ときとして「意識」しなくても発動される。

なるほど。たしかに「カブトムシがいる!」と2人同時で知覚した瞬間は、おそらく私と岸さんが何度もカブトムシにであった瞬間と同じ条件を有していた。

真夏にさしかかろうとする午前中。前日雨が降って蒸し蒸しする空気。ヤナギから流れている甘酸っぱい樹液の匂い。そしておそらくカブトムシのあの独特の臭い(わかるひと、たぶんいるよね)。

あの瞬間、岸さんと私は、「カブトムシのいる世界」に入り込んだ。

「カブトムシがいる世界」という空間を認識し、カブトムシというコンテンツを探そうとした。岸さんと私は「カブトムシのいる世界」を知覚できるメディアハードとなっていた。つまり「カブトムシがいる世界」というのは、このメディアハードを有している人間限定のメディア空間、というわけである。

岸さんが話を聞いた猟師もそうだ。

猟師は「熊がいる世界」というメディア空間を認識し、熊というその空間のコンテンツの出現を予言した。猟師は、「熊がいる世界」を知覚できるメディアハード。

猟師が熊に出会う直前の瞬間。

いい年こいたおじさん2人がカブトムシの存在に気づく直前の瞬間。

人間の場合、こういう「無意識」の記憶のなかには、DNAに刻まれているものと、センサーとしてのキャパシティは遺伝的に持っているけれど、経験を積むことで蓄積されるものと、おそらく両方ある。

赤ちゃんが母乳の匂いを嗅ぎ取るのはDNAに刻まれた「無意識」の記憶を発動しているはずだ。幼少時になんとなく秘密基地を作っちゃうのも世界各地で共通するところからやはり「無意識の記憶」の発動だろう

一方、猟師にとっての熊の出現、岸さんと私にとってのカブトムシの存在の知覚、というのは、それぞれの「経験」がもたらした「無意識」の記憶。ただし、五感を総動員して、ある種の無意識の記憶をためこみ、いざというときに発動する、ということ自体は、DNAに刻まれた動物としての人間の特徴のような気がする。

無意識で記憶できるさまざまな世界が人間にとってはある。

ただし、どんな世界を知覚できるかは、人間の場合、それぞれの経験によって、異なる。猟師には知覚できる「熊のいる世界」は、大半のひとには知覚できない。猟師が「熊が出る!」と予見した瞬間、仮に私が隣にいたとしても「?」だろう。つまり、同じ場所にいながら、「熊がいる世界」というメディア空間は、その猟師だけのものであり、私のものではない。私は「熊がいる世界」を知覚できるメディアハードではないからである。

これ、比喩でもなんでもない。

あらゆる生き物は、そもそも同じ客観的な世界に住んでいても、それぞれの生き物の「主観的世界」だけで生きている。

そう述べたのがユクスキュルだ。

ユクスキュルは、ダニの話をする。

あるダニは木の上に暮らしている。そして自分が寄生すべき動物が木の下を通り過ぎる瞬間、この動物が発する物質=情報を知覚し、ぽとりと落ちて、この動物に寄生する。動物が通り過ぎない限り、ダニはずっと木の上にいる。

ダニには視覚もなければ聴覚もない。森の景色もなければ、他の生き物もない。ただひたすら、「寄生すべき動物が通り過ぎる世界」。それだけを知覚するのが、このダニの世界、なのだ。

極端にいうと、このダニと私たちは変わらない。私たちは自分たちが知覚できる世界にのみ生きている。そして人間の場合、ダニ同様、人間という生き物だけが共有する世界に暮らしていると同時に、後天的な経験や偶然や教育を受けることで、人によって違う世界を持ったりする。

生き物の知覚できる世界は、その生き物のセンサーが知覚できる独自のメディア空間である。生き物は、融通のきかない、その世界でしか使えないメディアハードだ。人間だけが、インフラとしてのメディア空間とメディアハードの上に、教育と経験で独自に育てた世界=メディア空間を持ち、メディアハードになる。

続きます。





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