時ノ雨 下

「来たね」
「来たよ」
 翌日の彼女は、少しだけ明るく見えた。

「今日はちょっと早いね」
「…………」
「どうしたの?」
「僕は……キミと別れた後、いつも何をしているんだろう?」
 ずっと考え続けてきた疑問を口にする。

「思い出せないんだ……」
「そっか……」
 僕の言葉に、彼女は優しくほほえむ。
 だが、それはなんのこたえにもならない。

「僕は……誰なの?」
「アキはアキだよ」
「キミは、誰なの?」
「私は私だよ」

 沈黙が流れていく。
 空を見上げてみた。
 雨は確実に、弱まってきている。
「雨は、止んじゃうの?」
「いつかね」
「キミは雨が止むとどうなるの?」
「帰るよ」
 それは……。
 言葉通りの意味ではないのだろう。
「……消えるの?」
「帰るだけだよ。雨が止んだらみんなは外に出るけど、私は家に帰るの」
「…………」
「アキは怖いんだよね。一人になるのが」
 僕は空を見続ける。
「だからアキは雨が止んで欲しくないと願っている」
 脳裏に痛みが過ぎった。

「雨はみんなをおうちに帰すから。見たくない物を隠してくれるから」

 僕のまぶたに、雨粒が染みこむ。

「でもね、アキ。誰かと関わっていくのは、永遠じゃないよ。人は変わっていく。環境も、関係も、価値観も。でもそれはアキだって例外じゃないよ」
「だけど僕は……変わりたくない」
 僕はそれに耐えられなかったから。

「アキが望もうが、望むまいが、変わって行っちゃうんだよ。時間は進んでいく。どうやっても止められない。ただそれだけが真理。
雨が降って止むのも、同じ」
 彼女は優しく言う。
「時間はね、全てを変えるの。優しく、残酷に。傷は治るし、痛みは慣れる。子供は大人になって、いつか老人になる。捨てられた食べ物は腐る。それだけのこと」
「僕も……変わっていくの?」
「もう変わってるよ。私とこうして話している間にも、アキは変わっていくし、雨は空から落ちてくる」

 雨粒が地面に落ちていく。
 僕はその一つをてのひらにのせてみた。
 だがその水滴とて、やがては僕の手元を離れていくのだろう。
「それは誰にも止められないの?」
「うん。明日雨が止むことを誰にも止めることはできない」
 明日雨が止む。
 それが確かな事実だと、なぜか僕にはわかった。
「よく考えて。アキ、あなたはどこにいたい? どこに行きたい?」
 僕が彼女を見つめると、彼女は立ち上がり、僕の傍へと歩み寄ってくる。
 やがていつものように傘の中へ入ってきて、優しく微笑みかけてきた。
「どこに……?」
「そう。それだけがアキに変えられること」

 そしてその微笑みのまま、残酷な事実を僕に告げるのだ。

「明日、雨は止むよ」

 ……と。

   ***

  翌日。

 今日、雨は止むだろう。
 そして、僕は家に帰ればいい。
 ただそれだけのこと。
 それだけのことだ……。
  しかし、目覚めた時には、走り出していた。
 彼女がいるだろう、公園へ向かって走り続ける。
「待って!」
  公園のベンチから離れ、どこかへ歩き出す彼女へ向かって、声を放つ。
「アキ……」
 彼女は……今にも消えてしまいそうな、儚げな表情を僕へ向ける。
 雨は……もう小降りで薄日が差し始めていた。
 しかしその光は、決して終わりの合図ではない。
 始まりの合図だ。
「僕は……」
  振り絞るように、声を出す。
「僕は、生まれたい。また生まれたい……人間として」
「そっか……」
  彼女は小さく呟いた。
 雨が止めば、僕は生まれる。
 嫌がっていた生命を、再び手にするのだろう。
 でも今の僕に迷いはない。
「生きてると、辛いんだ。苦しいんだ。だけど、キミがいれば……」
  彼女がいるなら、どんなことだって……。
「私は、いけないよ」
  だが、彼女の言葉は冷酷に僕の胸を貫く。
「どうして……」
「私に、”おかあさん”はいないから……」
「……あ」
  その時、僕は全てを理解した。
 彼女には、宿るべき母がいない。
 それが僕と彼女の、相違点。
 ふいに、僕の頬に涙が伝った。
「ごめんね、アキ。一緒にいけなくて」
  雨は止む。止んでしまう。
 僕が望もうと、望むまいと。


  きっと現実からみれば、ごく僅かな時だったのだろう。
 だが、その時間が僕と彼女を引き合わせ、その想いを確かに通じ合わせた。
「雨が止んだら、きっと私のこと忘れちゃうかもしれないけど……」
  雨粒の感覚が、途切れ途切れになっていく。
 同時に、雨雲が裂けて太陽の光が広がっていくのがわかる。
「今度、雨が降ったら……」
 彼女の体が、光に照らされて薄れていく。
 僕は、もうすぐ産まれるだろう。
 そして、彼女は僕の知らぬ世界へ旅立つのだろう。
 それは、刻の流れ。
 あるがままに流れていく時間という摂理。
 彼女の体が、消えていく。
 地面に落ちた雨粒が、ゆっくりと蒸発していくように、彼女は空へ還る。
「さようなら……」

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