時ノ雨 上
――ある日、この世界に雨が降った。
――止まない雨が降った。
次の日も、そのまた次の日も、雨は止まなかった。
そして……いつしか外には誰も出なくなった。
僕は、今日も彼女に会う。
「おはよう」
いつもの公園のベンチに、彼女はいた。
だけど、今日の彼女はまた一段とずぶ濡れになりながら、むくれている。
「もう夜だよ?」
彼女は声のトーンを少しだけ低めにして、そう言ったので、僕は慌てて時計を見る。八時。
空を見上げる。
いつものように真っ暗な空と雨雲しか見えない。
時間の感覚は、既に無かった。
「……ごめん」
「いいよ、大丈夫。どっかいこ?」
機嫌を取り直した彼女が、僕の隣にやってくる。
そしていつものように、二人で一つの傘に入り、散歩を始めることにした。
耳に馴染んだ雨音が聞こえる。
今日はどこへいこうか……。
「ねぇ、アキはどうなの?」
雨音に混じって、彼女の澄んだ声が聞こえてきた。「どうって?」
彼女の言葉の意図がわからず、僕は思わず聞き返していた。
濡れた黒い髪が揺れる。
湿っぽい香りがした。
「おかあさん。アキにはまだいるよね?」
「……」
僕は首を横に振った。
雨が止まなくなってから、僕は家族の顔を見ていない。
今頃、彼らはどこにいるのだろう。
……もうとっくに、興味は無いけれど。
「会いたい?」
「え?」
思わず彼女の表情を窺う。
だが、その表情は黒い髪で包み隠されていた。
「みんなに、会いたい?」
「……」
僕は立ち止まる。
彼女も立ち止まる。
僕にはわからなかった。
どうして世界がこうなったのか。
僕はどうしたいのか。
――そもそも彼女は一体誰なのか。
……何もかもがわからなかった。
でも……
「ううん」
僕は首を横に振った。
「……そっか」
僕たちは再び並んで歩き出す。
***
商店街。活気が溢れていたはずのそこには、誰一人歩いていない。
――僕と彼女を除いて。
今この瞬間、世界は僕たちだけの物だった。
「ねぇ」
ブティックのショーウィンドウに立ち止まった僕は、彼女に声をかけた。
「何?」
僕はショーウィンドウを指さす。
「服濡れてるし。買ってあげようか?」
深い意味はない。
ただ彼女がいつも同じ服を着ているのが気になっただけだ。
「ううん……別にいいよ……」
「どうせ店員なんていないさ」
僕は構わず自動ドアをこじ開け、店内へと足を踏み入れた。
彼女は少し迷っていたようだが、結局僕の後についてくる。
店内はこじんまりとはしているものの、それなりに品質の良い物が揃っていて、デザインも若者向けだった。
「何か、欲しいものある?」
彼女はしばらく押し黙っていたが、やがて静かに一着の服を指さし、「これ」と小さく呟いた。
「これが欲しいの?」
指さした方向にはベージュのコートが掛けられている。
僕は値札を確認した。買えない額じゃ無い。
僕はレジの上にお金を置いてから、彼女にコートを渡す。
もっとも、店員すらいないのだから、お金を出す必要なんてないのかもしれないけど。
「ありがとう」
彼女は笑顔でほほ笑んだ。
だが、僕は少しだけ切ない気持ちになる。
彼女の笑顔は愛くるしいにも関わらず、それを見るだけで僕は切なくなる。
最近彼女は良く笑うようになった。
それ自体は良いことなのだろうけど、彼女がどこかへいなくなってしまうことの前触れのように感じるからだ。
「ねぇ」
「なぁに?」
彼女は僕があげたコートを羽織りだしていた。
僕は問う。
「キミは、いつか消えてしまうの?」
だけど、彼女はこう答える。
「……わかんない」
「わからない……?」
僕は首を傾げた。
彼女は彼女自身についてわからない。
それは……僕と同じではないか。
「アキは、どうなの?」
「どういう意味?」
コートを着た彼女が店に置かれていた姿見を見ながら言う。
「消えちゃいたい? こんな世界、嫌い? 私のこと、好き?」
「僕は……」
どうなんだろう。
なぜ僕は彼女に毎日会い、こうして邂逅しているのだろうか。
それすらわからない。
僕は何がしたいんだろう……。
「雨はいつか止むよ」
鏡越しに、彼女の視線が僕を射貫く。
「だって止まない雨はないから。おかあさんがお迎えにこなくても、雨は止んでしまう」
雨はいつか止む……。
その時、僕はどうするべきなのだろう。
何を、なすべきなのだろう。
「コート、ありがとう。……大切にするね」
***
外に出ると、ぱらついていた雨が勢いを増していた。
「雨、強くなってきたね」
一つの傘に入る彼女が、小さく呟いた。
「うん」
「アキは帰る場所があっていいね」
僕はハッとなり、彼女の顔を見る。
「僕に……帰る場所……?」
彼女は笑っていた。
とても儚げで、今にも消え入りそうな笑顔を浮かべて……。
「アキにはあるよ。帰る場所。羨ましい。雨が止んだら、みんなに会えるね」
「みんなに……」
みんなって、誰だろう? 今となっては、もう誰がいたのか分からないけれど。
それは良いことのはずなのに、なぜか僕は悲しい気分になった。
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