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2011.3.11


3.11 2011
東日本大震災

震災のあった当時
私はインドにいてこのニュースを現地の人から聞いて知った。

2011年4月 日本に帰国後
宮城県山元町へ炊き出しのボランティアとして入った。
山元町は、原発事故による強制避難指示地区の境目の地区。
その時期に最も原発に近い地区だった。
とても海から近く、3.11の際もツナミの非難地域に入っていた。

炊き出しの休憩の合間に、
外の作業をしているボランティア仲間から
「今から外に行くんだけど、海の近くにある小学校があるんだけど一緒に来る?」
と誘われ同行させてもらった。。。


・・・・・・

今回の旅で訪れたかった場所の1つでもあったこの「山元町」
現地に行って、資料館はないかと調べてみた。
すると、その当時にたまたま見に行った "あの小学校" が、
現在では資料館として残されていた。


資料館内を案内してくれたおじさんに、
「実は以前、私はここに来た事がある」と話をすると
当時の話をたくさんしてくれた。
彼は当時この小学校の職員として津波を体験された方の1人だった。

全員の非難が完了した後、校長先生は1人外で海の状況を見ていた。
1波、2波の津波はなんとか耐えられた校舎だったが、
20m近くあるのではないかという 3波目の津波が迫ってくるのを目視した彼は
「これはもうダメだ」と彼は腹を括った、、、

しかし、2波目の引き波にぶつかり、その大津波は割れ
津波の高さは10mまで低くなった

3波目の津波は、2階建ての校舎の2階の天井までを覆ったが
90人の生徒と大人たち(職員/保護者の方々)は
屋根裏の部屋へ避難していたので助かった。

肩を寄せ合い過ごした3月の寒い一晩をこえ、
朝ヘリコプターで全員無事に救出された

その職員のおじさんは
帰り際 私に向かって「あの時は助けて下さって本当にありがとう」と言った。

正直
当時私がしたことなんて、本当に短い期間の微々たるものでしかなく
何の足しにもなっていない気がしていて、その言葉をスッと受け止めることが難しかった。

今回の再来は、本当にたくさんの意味があった私にはあった。

美しい自然
大好きな自然
恐ろしい自然
偉大な自然

この偉大な力を前に、私たち人間は何も出来ないと思い知った災害だった。
そこで同時に起きた原発事故も、とてもシンボリックな事故で、その時多くの"テーマ"を私たちに残してくれたはず。

"自然"をリスペクトして、共存する生き方を考えないと。

地球から"人間は要らない"と認識されたら、人間なんてひとたまりも無い。

人は自分の過ちを後悔する。
でも、すぐに忘れてしまう。
そして繰り返す。

いつ"変わる"と自分で決めるの?

#tsunami #福島原発 #山元町震災遺構中浜小学校

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