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「とにかく行く」と「やっと帰れる」


iyamori。 #働いて笑顔になれた瞬間

もう「働くことが当たり前」になって何年経つのだろうと考えました。

私は働きながら娘を2人育て上げて離婚も経験している53歳ですが、私自身高校在学中から、自分の遊ぶお金は自分で稼いでいました。
小銭を稼いで小銭で遊ぶことに早い段階で慣れてしまっていました。
田舎の、普通に貧乏な家で育ちました。

貧乏とは言っても、別にその、飲んだくれの親父が働かなくてとかという非常に悲しいドラマのような貧乏ということではありませんでした。

(出来れば働きたくないと思っているだろうな)父親は、定時まではちゃんと働いてそれ以上は働きたくないという人でした。

父親は、金属加工工場の工員だったのですが、その工場に勤めるまではろくに働かない人だったそうです。叔母達談。
働き口が無かったと本人は言っていますが、イヤイヤ結局甘えん坊だったのだろうなと私は思っています。

でもその、父親が自分で話す「働こうと思って俺だっていくつか挑戦はしたんだぜ」的な話は私は割と好きです。

漁師になろうと船に乗ったら(函館っぽい)船酔いが酷くて続かなかったとか、器用だったから大工はどうだろう?と思って見習いで働かせてもらったけど、屋根に上らされてクラクラ〜ってしてしまって危なかったから続かなかったとか。。。
このクラクラ〜は後に「高所恐怖症」という呼び名が有ると知ったらしいです。

そもそも父親はろくに学校を出ていないんですよね。
昭和10年代で北海道函館市生まれの人なら、そういう時代だったのかな〜とも贔屓目に見ようと思えば見れます。

当時、父親は学校での給食費が払えないことが多かったそうです。
でもそんなことは別に自分だけじゃなかったし珍しいことではなかったんだそうです。
ところがある日それを、ある同級生の友達にバカにされたんだそうです。

「オマエいっつも持ってこないじゃんか」と。

思わずカッとなったそうです。

カッとなって思いっきりその同級生の男子を殴ったんだそうです。

瞬間先生に怒られたのは殴った側の私の父親だったそうです。

同級生の男子は鼻血を出してぴーぴーと泣いててザマーミロだったそうです。

ザマーミロと思いつつ、次の日から父親は学校には行かなくなったそうです。
「なんでよ」と私が聞くと、「はずかしいでしょ」と言っていました。

給食費が払えないことは恥ずかしくないけれど(他にも同じ子供が居たから)、クラスのみんなの前でバカにされたことが恥ずかしかったらしいです。
そしてもう給食なんか食べてやるもんかと思ったんだそうです。

本当に心から悔しそうに話すので、私は爆笑したことをよく覚えています。

給食費を払わずに、でも給食は食べてくださいと学校にお願いでもされてたかのようなモノ言いに私はワッハッハと笑いました。
何かをちょっと勘違いしてる様が可笑しくて大笑いしました。

まあそんな経験からなのか、「だから俺はオマエ達に金の苦労だけはかけない!」と心に誓ってくれた時期があったらしいです。
それを笑うとなぜかバチが当たりそうですが、でも笑っちゃいます。

結果的にはでも父親は、本当にギリギリ生活が出来る程度は頑張って働いてくれたように思います。
やりたくない工場仕事を地道に何年も何年もですよ。
ホントありがとうございます」と思います。

そして思い出すんです。

俺は仕事には、「とにかく行く」と思って行って、「やっと帰れる」と毎日思って帰宅していたんだよな何年もと、それこそしみじみと話していた頃がありました。
「オマエら(私と姉)が居たから働けた」と言っていました。
その話しをしていた時にそう言えば父は優しい笑顔だったかもと思い出します。

更にそう言えば、私がまだ小学3年生だったか4年生だったか思い出せませんが、万引きをして捕まったことがあります。
小学校の近くの文房具屋さんで消しゴムを数個盗んだんです。
それは初めてじゃなかったので、お店の人が目を付けていたんですね。
ある日、捕まったんです。

で、親が呼ばれるわけです。
当時はすぐ警察」とはなりませんでした。
とりあえず親」でした。担任にも伝わってなかったと記憶しています。

呼ばれた父親は当然お店の人に頭を下げていました。
よく覚えています。
継母も一緒に来ていました。

帰る道道、父親は少なからずショックだったようで、「消しゴムくらい買ってやる」とか「なんで言わなかった」とかとまあ色々言っていました。
私はひたすら黙っていました。
ごめんなさいとだけ繰り返したと思います。

翌日、私は学校へ行くことを許されませんでした。

父親が「行かなくていい」と言って、「俺も行かない」と仕事に行きませんでした。

継母は、私があの子を見ているからあなたは仕事に行ってくださいと父親にお願いしていましたが、「オマエじゃダメなんだ」と言って仕事を休みました。

その日は一日中庭の草むしりをやらされました。

むっつりとただただ草むしりをする私と一緒にその日は父親も草むしりをするのです。

ホラとバケツを渡されて、庭の端と端から始めました。
父親がだんだんと距離を縮めてきたのを覚えています。
途中チラチラとこちらを見ていたことも覚えています。

そのうち父親は私のすぐ横に来て、「大丈夫か?」と聞きました。
「かあさんがコワイのか?」と聞かれたことも覚えています。
とても小さい声でした。
その質問に対してどう答えたのかが思い出せないのですが、「消しゴムくらい買ってやる」とまた父親が言ったことは覚えています。

それに対して「いらない」と言ったことは覚えています。

そういうことじゃないんだよと、大人になった今なら突っ込んでやりたいシーンではあります。

翌日、普段なら父親は私たちよりも早く出かけていくはずなのに、出勤時間を送らせていました。
私が朝食を食べるのを見届けて、玄関を出ようと靴を履いている私を待ち構えて、頭に手を置いて、確か「ほしいものがあるならいえよ」とまた言ったと思います。

継母が遠巻きに私と父親の様子をジロリと窺っていたのを思い出します。
私はただ頷いたような気がします。

言わずもがなですが、それ以来私は万引きはしていません。

「とにかく行く」と思って毎日行く仕事。
「やっと帰れる」と思って毎日帰宅する。
ただひたすら黙々と繰り返すのです。

間違いなく父親は、それまでも生活の為に働く事は仕方がない事だったはずですが、私に消しゴムくらい買ってやらなきゃという思いを強くして、更に仕事は辞められなくなって頑張ったようでした。

大人になった今では私が、「とにかく行く」と「やっと帰れる」を繰り返して日々を暮らしています。
消しゴムどころか、電気代やガス代だって自分で払えるようになりました。

毎日誰かと喋っては笑っています。
誰とも喋らない日はテレビを見て笑っています。

地味だけど、働くって尊いなと思います。
生活するって大変だけど、地味でもなんでも働けて生活が出来るって尊い。

年老いた父親に会いたいなと思いました。
会いに行かなきゃなと思いました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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