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じんせいとは

実家のじいちゃんが亡くなりました。
老衰、とのこと。これが天寿をまっとうするということかと寂しいけれど納得ができた。
もうずっと私のことを忘れていて、実家に帰る度にきょとんとした顔で私の事を見ていたけれど(そんな所もチャーミングだと思っていた)、大きな病気もなく長生きしてくれました。今年私が実家に帰った時、立ったままばあちゃんと喋っていたら、どうぞどうぞと控えめに椅子に座るよう促してくれたじいちゃんの姿が忘れられません。


そんなじいちゃんの息子の私の父は、数年前に亡くなりました。私達子供には一切そんな事を話すことはありませんでしたが、鬱病だったそうです。じいちゃんも寡黙な人でしたが、父も寡黙で優しくて繊細な人だったな。
そんな2人の血を私も受け継いでいてあまり喋らないタイプな訳ですが。

一緒にお酒を飲むことも、孫の顔を見せることもなくいなくなってしまった。その事が本当に後悔でしかなかった。

生きるって幸せって人生ってなんなんだろう。

父が亡くなった数日後に私は所謂夢枕を見ました。夢の中で私は父が運転する車の後ろに座っていて、私は父に3つ質問をしていたのです。

「お父さんは今、寂しい?」
父はうーん…と難しい顔をしていて、
あまり寂しさはなさそうだった。
「お父さんは今、幸せ?」
これもまたうーん…とした表情で、
幸せかは微妙そうだった。
「後悔はしてない?」
この質問にははっきりと「ごめん」と言われた。父が後悔していないなら、もう受け止めるしかなかった。夢の中だけどそう解釈するしか、心の行き場は無かったからです。
そして、亡くなってしまったら残された側は毎日線香を立てて手を合わせて、忘れないでいることしかできることは無いんです。

このあと弟のところにも行くからと言われてそこで目を覚ましました。起きた瞬間胸がギュッッッと熱く詰まったように苦しくなっていて涙が出てきていました。
弟の夢にも父がでてきていたのかは、つらくなりそうで話していません。



そして今一緒に暮らしている母方のばあちゃんはここ最近で急激に認知症が進み始めており、実家の祖母とは全くタイプが逆のよく喋りよく怒る性格なため、本当にだめだと思っているのについ言い合いをしてしまいます。
とにかく心配性で、私が出かける度に何故か実家にいる母に鬼のように何度も電話をかけて来ていると聞いて、私に自由は無いんだってつい母に言ってしまった。そして母に謝られてしまった。そんな自分に酷く自己嫌悪をした。


社会に出てからそこで揉まれて心身ともに病んでいく人が身近に沢山います。
その社会を越えて老いたら今度は色々なことを忘れていき、そんな自身にきっと苦しみ悩み介護をされそして死んでいく。
その介護職も薄給なのです。そんな世の中で良いのだろうか。

私がただ悲観的になっているだけかもしれないけれど。


ささいな事に対して幸せだと感じられるほどまだ人間ができていない私は、今できることはがむしゃらに、でも健康に気をつけながらできるだけ家族と過ごせる時間は大事にして、じいちゃんのように大往生できるかは分からないけれど、父の分も私なりに生きていく事なのかもしれません。



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