【まえがき全文公開】『当事者と専門家――心理臨床学を更新する』
8月末に、金剛出版より『当事者と専門家――心理臨床学を更新する』(山崎孝明著)が出版されます。それにあたり、まえがきと序論を全文公開します。今回はまず、まえがきを。(序論は後日公開します)
本書には、「心理職」としての思いを込めました。多くの方にお読みいただき、心理臨床学を学問するきっかけになればと思っています。
まえがき
2021年6月に前著『精神分析の歩き方』(金剛出版)を出版してから、私の心理士人生は大きく変わった。前著は帯で「愛と連帯の書」(藤山直樹)と評されたが、たしかに私は前著を「連帯」のために執筆した。日本精神分析協会と日本精神分析学会、日本精神分析学会と日本心理臨床学会、心理業界の内と外、などなど。その狙いはある程度達成されたように思う。
というのも、ありがたいことに、前著は「精神分析」の枠を超え、想像以上の読者を獲得したからだ。その事実は私に、責任の感覚をもたらした。國分(2020)は、押しつけられた責任は堕落した形態であり、自発的な応答、すなわちレスポンシビリティこそが責任であると述べている。私は自発的に(勝手に)責任を感じたのだ。
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前著の執筆時も、ある種の使命感を抱いていた。それは「このままでは日本で精神分析が絶滅してしまうので、なんとかしなければ」というものだった。だから私は、前著を「精神分析的心理療法家」として執筆した。対外的には精神分析の「よさ」を語り、対内的には「根源的批判」(東畑開人)を向けた。それは若手である私が上の世代に対して叩きつけた、このままでいいんですか? という挑戦状であった。だがそれは裏を返せば、上の世代が盤石だと思えたからこそできたことであった。
今でこそその比率が変化したとはいえ、精神分析学会の運営委員は心理職に比べ医師の割合が多い。学会の歴代会長はすべて医師であるし、登壇者も医師が多い。おそらくここに、上の世代が「盤石だ」という印象を抱いた一因があると私は考えている。ありていに言えば、医師には、心理職にない、社会的地位とそこから来る経済的安定がある。
精神分析をオリエンテーションとする私が心理療法家として教えを受けた方の多くは精神科医だった。数年前まで、私は彼/彼女らを同じ「心理療法家」としてしかを捉えていなかった。たしかにその点においては私と彼/彼女らは同じだが、しかし他の点においては多くの差異を抱えているにもかかわらず、だ。言ってみればそれは、彼/彼女らが医師であり、自身は心理職であることを「見て見ぬふり」していた、ということなのだろう。
現実には私は、医師でもないし、大学教員でもない。それどころか常勤職でもない。いくつかの非常勤職をかけもちしている、在野の一心理職だ。安定とは程遠い生活を送っている。私の場合、それは自分が選んだライフスタイルだが、望まずにそのような不安定な就労形態を取らざるを得ない心理職も多くいることは私も知っている。
心理職はそういった存在であること、そして「臨床心理士」という肩書を名乗って発信する以上はそういった「心理職」を代表する人として見られることがあること、そうであれば心理職全体のことをもっと考えなければならないことを、私は学んでいった。だから、本書は「精神分析的心理療法家」としてではなく、「心理職」として編纂した、という思いがある。
こうした意識の変化には、前著の書評を心理職の大先輩である信田さよ子氏に書いてもらったことも大きく影響している(信田、2021)。信田氏は、医師という権威を向こうに回して、「医者にできないこと」をずっと実践しつづけてきた人だからだ。むろんオリエンテーションは違えているが、前著で「心理の専門家とは何か」と悩んでいた私にとって、信田氏の姿はひとつのモデルになった。
以前「日本精神分析学会における『見て見ぬふり』」(山崎、2017)でも書いたように、見て見ぬふりを続ければ地盤沈下が起こる。だからそれはやめる必要がある。だが、見て見ぬふりをするにはそれだけの理由があるのもまた事実である。そこに恥や痛みがあるからこそ、見て見ぬふりをする必要が生まれる。ゆえに、そこから脱するには、自分たちが今行っていることに対しての健全な信頼をもたねばならない。これも当該論文で述べたことだ。
しかし、その「健全な信頼」とやらは、どこから得られるものなのだろうか。その方法として容易に想像されるのは、権威からの承認だ。だが、ベンチを見て野球をするなとよく言われるように、スーパーバイザーや教員の顔色を伺いながらする臨床がよいものであるはずがない。そんなことは臨床家ならみなわかっていることだろう。仮にそこで信頼が得られたとしても、それは「不健全な信頼」にすぎない。私たちが依拠すべき権威はそこにはない。
だがいかんせん、心の治療には「正解」がない。するとどうしても権威に頼りたくなるのが人情というものだ。だが、それを続けている限り、いつまでも範型からはずれた「ありふれた臨床」に自信をもつことはできない。
信田氏が強いのはここだ。彼女はアディクションアプローチに基づいた、権威に基づかない「正解」をもっている。むろんそれが万人にとっての正解でないことは間違いない。だがしかし、彼女の目線は常にクライアントに向いている。クライアントと営んできた臨床のなかで、彼女は自分の基準を作ってきたのだ。
精神分析の世界では、よく「自分の頭と心で考える」と言われる。だが、実際その業界にいて、ほんとうに私たちは自分の頭と心で考えているのだろうか、と思うことがないとは言えない。むしろその歴史の長さゆえに、硬直的になっている面があることを否定できないのではないかとすら思う。
私たちは、クライアント――ここではユーザーと呼び変えておこう――のニーズを叶えることで対価を得ている、サービス業従事者なのである。だから、その援助が有意味であったかを判断するのはユーザーであり、その周囲なのだ。ここには、伝統的な大学院教育で伝達される価値観との決定的な乖離がある。
私たちの仕事はサービス業なのだ、と言い切ることに精神分析的心理療法家として抵抗がないと言えば嘘になる。だが心理職としては、そう言い切ることに抵抗はない。私は仕事の半分を精神分析的心理療法家として、もう半分を心理職として行っている。精神分析的心理療法家としては、私よりよいものを書ける人はあまたいるだろう。だが、精神分析を背景とした心理職としては、最先端を走っているつもりだ。本書はその成果物から成っている。
これまでに書いたものを改めてまとめてみると、(前著を含め)私はずっと一貫したことを考えてきたようだと気づく。それは、「今私たちの行っている実践を、正当に評価しよう。それが心理職のためだけでなく、何よりユーザーの役に立つからだ」ということだ。そのためには、私たちの行っている実践を、内部のロジックではなく社会のロジックで評価する必要がある。
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前著出版から1年後の2022年6月、私は日本心理臨床学会の理事となった。積極的にやりたいかと言われれば、決してそんなことはない。でも誰かがやらねばならないことはたしかだ。私などよりよっぽど適任の人がいるとは思うのだが、しかし押しつけられて発生する責任は「堕落」(國分、2020)した形態なのだから、やはり勝手に責任を感じた私がやるのが筋というものなのだろう。
…………と露悪的に述べたが、私にコミュニティ運営が好きなところがあることは認めざるを得ない。やりがいはある。本書では、コミュニティについて一人ひとりの心理職が考えることの重要性についても触れている。そしてその方法として論文があることにも触れる。それらの楽しみについて、一人でも多くの読者に知ってもらえれば、そして実際に関わってもらえれば、これほどうれしいことはない。そうした心理職が増えることが心理職の地位向上につながり、ひいてはユーザーに良質の心理援助を提供することにつながるだろう。本書は、そんな思いを込めて編まれている。
文献
國分功一郎(2020)「まえがき――生き延びた先にある日常」、國分功一郎・熊谷晋一郎(2020)『<責任>の生成――中動態と当事者研究』、新曜社
信田さよ子(2021)「書評-山崎孝明『精神分析の歩き方』」、『臨床心理学』21-6[751P]
山崎孝明(2017)「日本精神分析学会における『見て見ぬふり』」、『精神分析研究』61-4[503-513P]
書誌情報
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